やっぱり笙野頼子2006/12/04 00:26

 夕方山小屋を出て、川越に戻る。途中高速は空いていた、夕食は横川で釜飯を食す。帰ったのは8時半頃。

 三浦さんから本が届いていた。以前から志賀島から出た金印は偽物に違いない。それについて本にするといっていたその本がついに出た。題名『金印偽造事件 「漢委奴國王」のまぼろし』(幻冬社新書)である。さっそく読み始め、読了した。なかなか面白かった。だいたいの内容は聞いていたが、これで三浦さんの言っていた偽造の根拠がよくわかった。

 確かに、志賀島から何故王に授けられた金印が出てきたのか、しかも、田んぼから副葬品も無くただそれだけが出てきたというのは不可解である。雲南省から出土した滇国之印はちゃんと墓から出土している。

 この本の偽造説はかなり説得力がある。本人は95%確かだといっているが、そのように思えるのは確かだ。結局、金印が出土したときその鑑定をした儒学者が偽造したという説だが、その動機についての推測もなるほどと思わせる。

 本当のところは分からないにしても、ただ、その出土の経緯は疑うに充分であって、三浦さんが指摘するように何故みんな疑わないのか、そのことは確かに不思議だ。そこには、やはり権威というものがあるのだろう。国家という権威である。その意味で国宝というのは重いし、また、微妙に国家のアイデンティティにかかわるものであるということもあろう。その意味でこの本は権威に挑戦するというスタンスを持っていて、なかなか読ませるのである。

 今日もう一冊読了した本がある。笙野頼子の『一、二、三、四、今日を生きよう-成田参拝』(集英社)である。読み始めたのは一昨日なのだが、今日読み終えた。前作『金比羅』は笙野頼子の傑作であり、日本の文学を代表すると言っていい小説だと私などは思っているが、この本もなかなか面白い。

 成田の東峰神社に参拝するところから始まるところに、まず目を奪われる。昔の記憶が引き起こされてといろいろと思うところがあったがそれはそれとして、とにかく、笙野頼子は、ついにシャーマニックな文体を自分のものにした、というよりついに自分の地の文として自在に使いこなせるようになってしまった。そのことに感心した。

 以前私は笙野頼子論を書いたことがあるが、そのとき描写の暴走という言い方をしたが、もう暴走ではなく、暴走というならその書き手の存在が暴走めいてはいるにしても、それが日常の文体になっている。いわば中山ミキの「おふでさき」のような呪文めいた文章が、日常の語り言葉として、語り手の存在そのものを構成する文体になり得ている。

 その意味で希有な文体をついに笙野頼子は作り上げてしまった。神話はこうして巫女の口から語られたに違いないというような文体である。古事記のような文字で後から構成された書かれた文体ではない。

 T君もCoccoもいいけどやはり笙野頼子を読むべきだ。意味の言語の限界がこんな風に乗り越えられる言葉の光景にきっと驚くと思うよ。

    冬ざれや夢かうつつか神が居る

    霙降る鳥居の脇の猫二匹

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