「韓国ノワール」的韓流ドラマ2020/07/31 00:35

「韓国ノワール」という言葉がある。これでもかというように過剰な暴力を振るう人間を描く韓国映画を評する言葉だ。追い詰められ容赦なく殺される人たちを徹底して描く。あるいは、人間の内なる悪や暴力性を目を覆いたくなるほどのリアリズムで描く。何故、これほど悪や暴力の表現に過剰になるのか。誰しもが思う疑問だろう。

 韓流ドラマは視聴率を気にするテレビドラマだからさすがに残酷な暴力な場面は映画ほどはない。が、それでも、「韓国ノワール」的ドラマはある。当然私はこの手のドラマは苦手なのであまり観ない。うちの奥さんは嫌いでないので私も付き合いで時々観るのだが、残酷な暴力の場面は観ないようにしている。例えば「ボイス1・2・3」のシリーズなどは、あまりに暴力描写や壊れた人間の描き方がエグすぎて私はついて行けなかった。特に、韓流サスペンスは、サイコパスによる犯罪を好んで描く。「ボイス」もそうである。良心の欠如した人格を持たせるには、人格障害として描くということなのだろうが、このサイコパスの設定も私は好きではない。

 何故韓流ドラマは、良心の欠如した悪の過剰な暴力を描くのか。私は、韓国社会のどうにもならない絶望感が背景にあると思っている。それは韓国社会が構造的に持つ格差であり差別である。王朝の時代は、貴族(両班)と庶民のあいだに格差と差別があり、近代に入れば、日本の植民地化による日本人との格差や差別があり、戦後は財閥と庶民の間の格差と差別が厳としてある。一般の人々がどんなに頑張ってもこの格差や差別は乗り越えられない。それが社会の宿痾になっている。経済重視ではなく格差と戦おうという主張の左翼が政権を握れるのもこの構造のおかげである。韓流ドラマが両班や財閥の横暴さを好んでが描くのもこの構造があるからだ。

 このどうにも動かしがたい構造に、政治ではなく、情のドラマで抗おうというのが韓流ドラマのポリシーだと言っていいだろう。復讐ものも、ドロドロの愛憎劇も、ラブコメも、財閥の御曹司(または令嬢)と庶民の男女の関係が必ず描かれる。例えばツンデレな御曹司が貧しいが素直で元気な庶民の女性と最悪の出会いをしながら、運命のような成り行きで結ばれるというラブコメお得意のシンデレラストーリーも、この格差への抵抗なのである。現実では不可能な財閥との結婚を可能にするファンタジーは、世界の物語の王道であるが、韓国では、格差を超えたい願望がそういったファンタジーを単純な娯楽作品にしていない。

 韓国ノワールの容赦ない過剰な暴力性も、韓国社会に内在する格差や差別に対する、絶望感に裏打ちされた抵抗なのだと言えるだろう。人格を壊し暴力に過剰になるしか、生きることの意味を刻めない人間もいる、という叫びのような表現なのだとも言える。

 韓流ドラマは、嫉妬による小さないじめからサイコパスによる残虐な殺人まで、実に様々な悪人を描く。彼らに共通しているのは、彼らは、社会の仕組みに対して情の暴走でしか立ち向かえない人なのだということだ。そういう悪の振る舞いの必然性を誰もが我がこととして理解出来る。だから、韓流ドラマは多くの人に愛されるのだ。


    夏の葉叢やがて散る葉の覚悟満つ

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