母を語る2016/08/06 23:16

 一ヶ月ぶりのブログです。前期の授業も終わり、試験、成績、オープンキャンパスと仕事を全部片付け、明日から中国。今回はお盆までに帰ってこなければならないので一週間の予定。科研の最後ということで、とりあえず調査研究も今回で一段落というところ。

 帰って来たら、論文を書く仕事が山積。また、勤め先の第三者評価が九月初旬にあり、責任者の私はたぶん休む暇がなさそう。それにしてもだ、どんなに頑張っても、全国の短大は数を減らしつつある。わが勤め先も将来は不透明だ。第三者評価をするなら、短大を生んだ日本の大学制度そのものを評価して欲しい。現場でどんなに努力しても、学長か理事長が先行きが見通せないからやっぱり募集停止にしようなどと言われかねない状況に、生き残っている全国の短大は今おかれていてるのだ。

 ただ、短大も必要とされている。推薦入試やAO入試の面談で、何故短大にと聞くと、ほとんどが経済的理由と答える。その意味では、短大も社会的な意義があり、その責任は重いのだ。恐らく、大学へ進学する者への給付奨学金が充実し、税金の補助によって授業料がかなり安くなれば、短大の使命は終わるだろう。しかし、敗者を自己責任で片付ける今の格差肯定経済では、無理な話だ。皮肉だがアベノミクスのおかげで短大の必要性は当面無くならないのだが、それでもまだ数は多いので、淘汰はされる。しつこく頑張って生き残らねば。

 船戸与一『満州国演義』(文庫版)第9巻が出た。早速読了。これで全巻読み終える。最後は、物語性がほとんど無くなり、敗戦の歴史を時系列に追いながら、戦争の只中を生きた主人公たちの末路をたんたんと描くだけに終始していて、物語としてはやや飽き足らないが、それでも、歴史の一つの終わりをやった読み終えた満足感はある。

 『満州国演義』を読み始めた理由は、昨年事故で亡くなった母親のことをいずれ何らかの形で書きたいと思ったのが理由である。母は、12歳で両親に連れられて満州に入植。18の時に同郷の満蒙青年開拓団の一人(私の実父)と結婚。夫は結婚後すぐに招集され入隊。そのまま侵攻してきたソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留された。母は妊娠し、そのまま母の母(母の父はすでに病死している)と二人の弟で入植地から避難。途中出産し、やっとの思いで、引き上げ船の出る港までたどり着くが、親は途中で病死、子どもも亡くなった。母は二人の弟と帰国し、2年後に夫がシベリアから戻る。

 戦後夫との生活が始まり、生まれたのが私と先月亡くなった弟である。だが、父が荒れ始め、ギャンブルにのめり込み家は崩壊。結局私が小学1年のときに母は離婚、私は父と母で取り合いになったらしいが、結局母と暮らすことになる。その後母は長屋の隣に住んでいた左官職人と再婚し、私と弟はその養父に育てられるということになる。

 母はとにかくよく働いて私たちを育ててくれた。母の恩恵は山より高しである。貧乏で、やっとの思いで私を大学に出してくれた親の恩をかえりみないで学生運動にのめり込んだ私は親不幸だが、親孝行を十分に出来なかった悔いはかなり残っている。

 母が事故で亡くなる一年前、私は母の満州時代のことを何も知らないことに気づき、帰る度に聞き書きをした。だいたいのことを聞き終えたら事故で亡くなった。タイミングが良すぎる。それで、母のことを何らかの形で残すことがせめてもの親孝行と、満州についていろいろ読み始めた。その一つが船戸与一『満州国演義』である。文庫で出始めたので、読み始めたのである。それなりに面白かったし、歴史もよく分かった。ただ、満州に渡った一人の農民の生活を知るという小説ではないが、日本人が満州にかけた夢とその悲惨な結末はよく描かれている。満州に夢を抱いたのは母の父であった。子どもだった母は突然満州に連れて行かれ、死ぬ思いをして日本に帰ってきた。帰ってからも母の人生は波瀾万丈で、実は、その当事者である私は、私を育てているときの母のことをあまり知らない。母は私の聞き書きの時もあまり詳しいことは語らなかった。語りたくなかったのだろう。それでも、母のことは語っておかないといけない気がしている。実際、どうなるかはわからないが。