もう夏も終わりですが…2016/09/13 17:35

 涼しくなってきたからというわけではないが久しぶりのブログです。
 八月十四日に中国の調査から帰国。それから一ヶ月近く、体調が優れないのと、勤め先の短大の第三者評価の実地調査への準備、論文の準備等々、慌ただしく過ぎ、何とか、一段落というところ。第三者評価の実地調査が先週で終わり、受け入れがわの責任者である私もほっとしたというところである。

 この第三者評価は七年に一度受けることになっている。七年前も私が責任者でのこの評価を受けた。大学の教育やガバナンスが適切かどうか調査を受ける、ということなのだが、調査するのは、同業の他短大の教員が主体になる。実は、私も、他の短大に実地調査にいったことがある。大学にも民間の格付け会社と同じような組織があって、その組織による評価、つまり格付けをもらわないと国から補助金がもらえない仕組みになっている。

 国から直接評価を受けるよりはいいシステムだが、評価基準はだいたい文科省や審議会が作った指針なので、ある意味では、全国の大学・短大が国の指針どおりに教育やガバナンスを行っているかどうか、格付け会社が審査する、と言えなくもない。が、こういった評価制度はないよりはあったほうがいい。とりあえずは、教育やガバナンスが第三者の目にさらされるわけで、そのことの緊張感は、大学の組織を一時的とは言え健全なものにするからだ。

 短大の場合、評価する委員の属す短大も共通して危機的なので、場合によっては、実地調査は、評価というより、どうやったら生き残れるか学び合いということにもなる。それもまた当然だろう。国の指針通りにいくら頑張って教育しても、少子化が進む現状では短大志願者は減るばかりである。これは高等教育機関の構造的な問題でもあるので、日本社会の短大の位置づけが変化していかない限り解決がつかない。そのようななかで、何とか生き残る方策を考えなくてはならない者同士が評価し評価される場では、評価する側も、何か参考になりそうなところを見つけて帰ろうとするのは自然である。私も評価委員として他校に行ったときはそうだった。

 中国の調査では、雲南省のモソ人の村に入り、葬式を三日間取材できた。限られた日程で葬儀に出合いしかも取材が許可されるのはほんとうにめったにない。同行のE君が昔から通っている調査地で、その村の宗教者と親戚づきあいのような関係を作っていたおかげである。

 亡くなったのは高齢のおばあさんなので、どちらかと言えば悲しい葬式ではない。が、それでも、遺族は死者の前では徹底して哭き歌を歌う。今回の調査で一番記憶に残ったのはこの哭き歌である。

 喪主の娘はけっこう年を取っていて、忙しく葬儀の様々な仕事をこなしている。が、村の人が弔問に訪れると、位牌の前で哭き崩れる。実は、それが哭き歌になっている。哭き歌を続けると一人では立ち上がれず、抱えられて立ち上がる。ところが、すぐにもとに戻り忙しそうにかけずり回るのである。

 村の女性たちが位牌の前に坐りやはり泣き崩れる。これも哭き歌である。死者にくどく言葉を歌いながら泣き崩れる。何人かは一人では立ち上がれなくなる。その光景を目の当たりにしながら、これはほとんど憑依であると感じた。女性たちは、位牌の前で手を合わせるとスイッチがはいったように哭き歌を歌い始め、一人では立てなくなる。これを葬儀の間何度も繰り返すのである。特に興味深いのは、最後に荼毘にふすときも、そのすぐ近くまで女性たちは付き添い哭き歌を歌うことである。イ族の葬式では、女性たちは荼毘の場所には行けないという遠藤耕太郎の報告があるが、モソ人は違うのである。私の印象では、この葬儀は、ラマ僧の読経と、女たちの哭き歌で進行していった。

 このような哭き歌を実際に見られたのは収穫であった。とにかく哭き歌に圧倒された。近く建物ではきらびやかな衣装を着けたラマ僧がお経を唱えている。18人はいる。これもすごい。そんなに裕福ではない農家の葬式に僧たちが18人も来て、儀礼を行うのである。日本で言えば、大きなお寺の僧侶が全員来て葬式をやるようなものだ。当然費用もかかかるだろう。死者を送る儀礼が長時間(三日間)厳粛にしかもお金をかけて行われる。そのことにも圧倒された。

 この「哭き歌」、歌の研究をしている私にとって衝撃だった。哭くという行為が、憑依に近いものであることがよくわかった。それにしても、この葬式でも男は泣かない。ここにもジェンダーによる役割分担がある。男たちは様々な儀礼をこなしながら粛々と死者を送る儀礼を進めて行く。女たちの「哭き歌」は時にこの儀礼の進行に逆らうようにも思われた。葬儀には必ず、死者をあの世に送る流れと、その流れを阻止する哭く感情とのせめぎ合いがある。そのせめぎ合いが実によくわかる葬儀であった。

 さて、七月から八月にかけて私は、田中芳樹の『アルスラーン戦記』全15巻。『銀河英雄伝説』全10巻、小野不由美『十二国記』全巻(十一冊)を読破した。上橋菜穂子の『精霊の守人』シリーズを読破している私としては、ファンタジー系のシリーズものを一応目を通しておこうと思って読み始めたが、とまらなくなり、全巻読破したという次第。おかげで勉強の時間がだいぶ減った。感想は述べないが、やはり、いろいろ読んで見て上橋菜穂子の描くファンタジーがすごいということだけは言える。上橋菜穂子の新作を期待している。

 韓流ドラマも相変わらず奥さんと見続けている。今見ているのは、「私はチャンボリ」で衝撃を受けた、あのミンジョンを演じたイ・ユリが出ている「きらきら光る」である。「私はチャンボリ」はこの「きらきら光る」の後に作られていて、言わば進化形である。つまり、ここでもイ・ユリは、貧しい境遇からひょんなことで金持ちの娘になるグムランという女性を演じている。彼女は、明るいヒロインに嫉妬し、自滅の道を歩む。つまりだんだんとミンジョン化していくのだ。いやあこれも面白い。はまります。

母を語る2016/08/06 23:16

 一ヶ月ぶりのブログです。前期の授業も終わり、試験、成績、オープンキャンパスと仕事を全部片付け、明日から中国。今回はお盆までに帰ってこなければならないので一週間の予定。科研の最後ということで、とりあえず調査研究も今回で一段落というところ。

 帰って来たら、論文を書く仕事が山積。また、勤め先の第三者評価が九月初旬にあり、責任者の私はたぶん休む暇がなさそう。それにしてもだ、どんなに頑張っても、全国の短大は数を減らしつつある。わが勤め先も将来は不透明だ。第三者評価をするなら、短大を生んだ日本の大学制度そのものを評価して欲しい。現場でどんなに努力しても、学長か理事長が先行きが見通せないからやっぱり募集停止にしようなどと言われかねない状況に、生き残っている全国の短大は今おかれていてるのだ。

 ただ、短大も必要とされている。推薦入試やAO入試の面談で、何故短大にと聞くと、ほとんどが経済的理由と答える。その意味では、短大も社会的な意義があり、その責任は重いのだ。恐らく、大学へ進学する者への給付奨学金が充実し、税金の補助によって授業料がかなり安くなれば、短大の使命は終わるだろう。しかし、敗者を自己責任で片付ける今の格差肯定経済では、無理な話だ。皮肉だがアベノミクスのおかげで短大の必要性は当面無くならないのだが、それでもまだ数は多いので、淘汰はされる。しつこく頑張って生き残らねば。

 船戸与一『満州国演義』(文庫版)第9巻が出た。早速読了。これで全巻読み終える。最後は、物語性がほとんど無くなり、敗戦の歴史を時系列に追いながら、戦争の只中を生きた主人公たちの末路をたんたんと描くだけに終始していて、物語としてはやや飽き足らないが、それでも、歴史の一つの終わりをやった読み終えた満足感はある。

 『満州国演義』を読み始めた理由は、昨年事故で亡くなった母親のことをいずれ何らかの形で書きたいと思ったのが理由である。母は、12歳で両親に連れられて満州に入植。18の時に同郷の満蒙青年開拓団の一人(私の実父)と結婚。夫は結婚後すぐに招集され入隊。そのまま侵攻してきたソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留された。母は妊娠し、そのまま母の母(母の父はすでに病死している)と二人の弟で入植地から避難。途中出産し、やっとの思いで、引き上げ船の出る港までたどり着くが、親は途中で病死、子どもも亡くなった。母は二人の弟と帰国し、2年後に夫がシベリアから戻る。

 戦後夫との生活が始まり、生まれたのが私と先月亡くなった弟である。だが、父が荒れ始め、ギャンブルにのめり込み家は崩壊。結局私が小学1年のときに母は離婚、私は父と母で取り合いになったらしいが、結局母と暮らすことになる。その後母は長屋の隣に住んでいた左官職人と再婚し、私と弟はその養父に育てられるということになる。

 母はとにかくよく働いて私たちを育ててくれた。母の恩恵は山より高しである。貧乏で、やっとの思いで私を大学に出してくれた親の恩をかえりみないで学生運動にのめり込んだ私は親不幸だが、親孝行を十分に出来なかった悔いはかなり残っている。

 母が事故で亡くなる一年前、私は母の満州時代のことを何も知らないことに気づき、帰る度に聞き書きをした。だいたいのことを聞き終えたら事故で亡くなった。タイミングが良すぎる。それで、母のことを何らかの形で残すことがせめてもの親孝行と、満州についていろいろ読み始めた。その一つが船戸与一『満州国演義』である。文庫で出始めたので、読み始めたのである。それなりに面白かったし、歴史もよく分かった。ただ、満州に渡った一人の農民の生活を知るという小説ではないが、日本人が満州にかけた夢とその悲惨な結末はよく描かれている。満州に夢を抱いたのは母の父であった。子どもだった母は突然満州に連れて行かれ、死ぬ思いをして日本に帰ってきた。帰ってからも母の人生は波瀾万丈で、実は、その当事者である私は、私を育てているときの母のことをあまり知らない。母は私の聞き書きの時もあまり詳しいことは語らなかった。語りたくなかったのだろう。それでも、母のことは語っておかないといけない気がしている。実際、どうなるかはわからないが。

弟の死2016/07/01 23:53

 29日未明に弟が亡くなった。わたしより2つ下、64歳であった。今年一月に施設で転倒して入院。肺炎、脳梗塞と重なり、寝たきりの状態が続き、意識も混濁していた。話しかければ反応はするが、意識があるかどうかわからないと医者は言っていた。結局、抵抗力がなくなり、肺炎を克服しきれずに力尽きたということである。本人は苦しんでいたのでこれで楽になったと思いたい。昨年、パーキンソンで要介護3の弟を面倒見ていた母が事故でなくなり、結局、弟も、一年後に母のもとへ旅立ったということになる。

 弟は、絵を描き、小説を書き、アジアを放浪し、自由にというよりどちらかといえば何かを探してあてどなくさまよっていたというべきか。高校を出て、定職につかず、今で言うフリーター生活を続け、結婚もしなかった。結局、晩年は、ビルの管理会社の仕事に就き、年老いた母と落ち着いた暮らしをしていたが、運命とはむごいもので、5年前にパーキンソンを弟に発病させ、年老いた母が60になった息子の介護をするはめになった。

 葬儀の前に、戒名をつけるというので僧侶に弟の人柄を問われ、答えに窮した。ユーモアがあって楽しいところもあったが、狷介で皮肉やであった。人はよかった。犬猫をとてもかわいがった。まあ、私と似ているといえば似ている。私はあまりユーモアは得意でないが。

 パーキンソンになってから、レビー小体型の認知症を併発し、幻覚や妄想を語り始めた。妄想の方は、病ではなく性格の部分もあったかも知れない。母が死んでから、自分の書いた小説が賞をもらっているはずだと語り出す。妄想だが、この妄想、病になる前からかかっていたとも言える。文章はうまいし、アジアを放浪していたときの体験をベースにしていて、うまく生きられないものたちの悲しみをそこそこ描いていた小説なのだが、作品にまとめる力がなかった。弟の夢はついに本物の妄想に引き継がれてしまった。

 弟に連絡すべき知人友人は誰もいなかった(本当はいたのかもしれないが、交流を示す何の記録も残ってなかった)。葬儀は私と妻、そして、母方の親戚との5名による家族葬でシンプルに行った。生きているときも孤独であったが、死ぬ時も同じであった。

 2週間前に危ないとの連絡を受けたが、どうにか持ち直し、28日昼に宇都宮の病院に行ったが、特に問題はなかった。29日未明午前3時に様態が急変したとの電話を受ける。朝一番の電車で宇都宮に向かった。弟はすでに未明に亡くなっていた。そこから、勤め先に休講の連絡を入れ、葬儀の準備。昨日通夜、今日午前葬儀。午後には、母と父の眠る墓へ納骨と、あっというまに終わってしまった。昨年母の葬儀でお世話になった葬儀社もよく覚えていてくれて、少人数のささやかな葬儀を実に手際よく荘重に行ってくれた。

 お経のことばではないが、人の命ははかないとはまったくこの数日の私の体験そのものであった。とにかく、今週は思いがけずにすさまじい日々だった。疲れたが、たぶん、古来から人が人間の生き死にについて悟らなければならない大事なことを、突きつけられた日々であったように思う。むろん、私にはとても悟りはほど遠いということだけがわかっただけだが。

宇都宮の斎場に紫陽花が群れをなして咲いていた。

おとうとの逝きし日の紫陽花の群れ

ミンジョンの衝撃2016/05/31 10:53

 久しぶりのブログです。最近は更新が一月に一度になってしまってるのですが、何とか頑張ります。
 忙しいのは相変わらずで、体力も落ち、数日前にぎっくり腰になり、すわったりたったりするのが不自由になり、長時間坐っていると立てなくなったりと、こうやってワープロを打つのもままならぬ状態が続いている。日ごろの疲れが出たのか、歳なのか、どうも明るい話題とは縁が無い日々を送っている。困ったものである。
 5月21日に高岡の万葉歴史館で歌謡学会があり、工藤氏が学会の志田延義賞を受賞したのでその受賞式に参加した。久しぶりの高岡である。初めての北陸新新幹線だったが、富山まで二時間ちょっと、早かった。氷見線の伏木という駅で降りてお昼を食べようとしたが、駅前には店らしいものがなく、人も歩いていない。駅の人に食事できるところはないかと聞くと、ちょっと歩くと一軒あるという。行って見ると、確かに店らしき建物がある。入ると、おばさんがチャーハンを作っていた。カウンターに坐り何が出来るかと聞くとチャーハンしかないという。とりあえずチャーハンを注文。おばさんは、かつてはロシア船が入りロシア人で賑わった。ドルの偽札をつかまされて悔しい思いをしたこともあった。今は客は少ないが、店を閉めるとこの町に食堂が無くなってしまうので続けているという。ご飯に味付けをしただけのシンプルなチャーハンを食べながらおばさんの話を聞いていた。
 次の日は、レンタカーを借りて、三人で羽咋の気多神社を行った。私は以前訪れたはずなのだが記憶にない。行って見ると、なかなか古びていて雰囲気のある神社だ。背後にあるタブノキの原生林がやはり見どころだ。このタブノキの原生林については折口信夫が書いているが、その折口父子の墓に訪れる。富山まで帰り、新幹線で帰ってきた。
 楽しみなどほとんどない日々を送っているが、専門書以外のエンタメ系の読書(これは古本バザーに本を出品するという目的がある)。と韓流ドラマを奥さんと観るのが、楽しみと言えば楽しみである。エンタメ系読書は最近当たりが少ないが、山本弘『翼を持つ少女BSビブリオバトル』はけっう面白かった。私の勤め先の短大で読書会ならぬ「ブックパーティ」を開いていて、そこではおすすめ本バトルをやつている。ビブリオバトルはその本格的なやつだ。高校生が主人公だが、SFオタクの少女が出て来てSFについてうんちくを語る。SFファンの私はそれが面白かった。SFの奧は深い。SF以外にもいろんな本が紹介されていて、学生にすすめたいと思う以上に自分が勉強になった。
 韓流では「私はチャンボリ」にはまっていた。レンタルで37巻あるが、とにかく毎日のように見続けて見終わった。つかれだが、久しぶりに面白いドラマだった。
 見るきっかけは、韓流時代劇「耀くか狂うか」のヒロイン、オ・ヨンソのファンになり、彼女が主演の「私はチャンボリ」を観てみたということである。幼い子どもが交通事故で記憶喪失になり、大人になつて実母と出会う、という韓流定番のストーリーで、実母に会うまでに、主人公の敵となる悪女も現れ、母子の愛や、恋愛と、おきまりの展開ではあるが、オ・ヨンソ演じるチャンボリの元気でポジティブな明るさが見どころになっている。だが、何といっても、このドラマは、悪女ヨン・ミンジョンを演じた、イ・ユリのすごさだろう。正直、ドラマの後半はこのミンジョンの悪女ぶりがあまりにすごくて、しかも、泣かせるので、ほとんどチャンボリを食ってしまっていた。
 今までいろんなドラマを観てきたが、こういう悪女は初めてである。(以下ネタバレあり)貧しい境遇から脱出しようと、子どものときから嘘をつき、記憶を失ったチャンボリの実家(伝統的韓服作りを継承している名家)に巧みに入り込み、親はいないとだましてチャンボリになりかわって養女となる。ミンジョンの実母はチャンボリを自分の娘として育てる。成長したチャンボリは、裁縫の腕を磨き、本当の親の家にそれとは知らずに、韓服を習いに行き、やがて、その家が自分の家だとわかる。
 こういったストーリーなのだが、実際はかなり複雑な展開になつている。特にミンジョンは嘘に嘘を重ねて、幸せをつかんだように見えるが、次から次へと自分のついた嘘がばればしめ、最後に破滅していく。この嘘の付き方が半端ではない。嘘が通じないとみると、今度は相手の弱みを握って脅しにかかる。しかし、このミンジョン憎めないのである。むしろ、その驚異的な生命力に感動すら覚える。なにしろ、ついた嘘はすぐにばれるし、悪事も露見するのだが、そのたびにもうおしまいとおもいきや、ゾンビのように復活し、次の作戦を練り、またしたたかに次の嘘を考えるのである。この徹底した自己中心主義は、その貧しさから脱出したいという本能的な生き方にあることがわかっているから、観る者に同情させる。そして、冷酷なように見えて、情をすてきれないところもある。何より、破滅に向かっていることを覚悟で生きているところがある。嘘で固めて結婚した男に、愛情を持ち、捨てられてもその愛情を捨てないところなど涙である。
 このようなすさまじい人物を作り出す韓流ドラマはたいしたものだと思う。言いかえれば、それだけ格差社会が徹底していて、また、伝統的な女性像が一方にあって、そして、女性の社会的な地位も向上してきて、このような、ミンジョンという底辺から不当に成り上がろうとするエネルギッシュな女性像を創り上げているのだと言えよう。チャンボリは、底辺から成功していく明もしくは善だとすれば、ミンジョンは暗であり悪である。が、人間としてみれば、明るくけなげなチャンボリより、暗くてきたないミンジョンのほうが誰も自分に近いと思うだろう。
 最終回の描き方もとてもよかった。ミンジョンをこれみよがしに破滅させなかった作者に感謝である。

キャリア教育の難しさ2016/04/17 18:56

 熊本地震、改めて日本で住むには地震を覚悟しなくてはいけないことを確認した。被災した人たちが早くもとに戻れるよう祈るばかりである。それにしても、大地震のペースが速すぎる。東京だっていつくるかわからない。奥さんが同年代の友達と美術館に行って食事をしたとき、その友達は、災害で帰れないときに必要なグッズを一通り持ち歩いていて、そのことに驚いたといいう。その女性の話では、いつもは折りたたみのヘルメットをもちあるいているのだが、今日は持って来ていないという。そこまで準備している人もいるのだ。

 ブログも久しぶりである。新学期が始まり、授業も始まった。今年度から学科長でなくなったので、授業の数が増えた。だが、私が担当の「古典文学史」の受講者数が少なく閉講になってしまった。もう一つの「近現代文学史」とどちらか選択なのだが、みんな近現代にいってしまった。といっても、わが学科の「日本文学」のコースは30名程度。この数では、どっちにしろ授業はなりたたない。危機的である。授業がなりたたなくなる、というより、学科もしくは勤め先の短大そのものが危機的である。私も、必死にどうしたら学生が集められるのか、知恵を絞っているのだが名案が浮かぶわけもない。

 短大苦戦の大きな原因は就職である。短大で生き残っているのは、ほとんどが資格系で、うちのような文系は、すでに希少価値になりつつある。四大でも文学系は苦戦している。ましてや短大はもっと深刻、ということである。短大志望の受験生の関心はやはり就職である。経済的な理由で早く社会にでるために短大を希望する学生が増えているのである。従って、就職に強い、というところが人気が出る。文系の短大学科として、私のところは内定率が低いわけではない。けっこう頑張っている。が、それでも、資格系や家政系に比べれば低い。

 何故低いのか、大きな理由は、激烈な就活競争に向かない学生が少なからずいるからである。今、企業(社会がといってもいいが)学生に求める能力のトップは、コミュニケーションの能力である。就活の講習で学生は必ずこれを言われる。このコミュニケーション能力とは、具体的には、初対面の人に憶せず自分の意見が言えたり、接客が出来る(特に女性の場合)人のことである。見知っている人や気心が知れている人に意見が言えてもそれはコミュニケーションの能力とは言えない。

 新学期の私のゼミに11人学生が受講し自己紹介してもらったが、そのうち三人が、私は人見知りで話すのが苦手です、と話した。つまり、企業が求めるコミュニケーションの苦手な学生なのであるが、人見知りはきっともっといる。かくいう私も人見知りである。文系は特に多い。人見知りであることと、文系を志望することとは比例している、というのが私の感想である。

 この人見知りの学生を、初対面でも憶せずに話せる学生にどう変身させられるか、これが、今われわれに課せられている、内定率を上げるための課題であり(これが出来なければ潰れる)、そのために、グループワークとか、アクティブラーニングとか、とにかく、学生の発言する機会の多い授業をいくつか作ったりと努力しているのだ。

 が、人見知りは、性格であり、また、それまでの生き方と関係している。従って、本人によほど自分を作り変えるくらいの積極性がないと直るものではない。そして、その人見知りを何とか克服して就活に挑ませる課題を負った私自身が、別に人見知りでもいいじゃない、と思っているところがある。

 営業向けのスマイルや会話ができなければ、生きる資格がないとまではいわないまでもかなり不利な条件で社会に出て行かざるを得ない今の社会そのものに不審がある。これも、職業がサービス業に特化しつつある現在の日本の資本主義の良くない面だ。多少の人見知りでも普通に生きて行けるようなまっとうな社会にならないものか。人見知りの多い学生たちを教えながらいつもそう思うのである。

 が、いくら社会の悪口を言っても、問題が解決するわけではない。人見知りの性格を直せとまでは言わない。ただ、演技でいいから初対面の人とそこそこ対話してその場を切り抜けるくらいのことは身につけた方が楽に生きられるよ、とは言っているつもりだ。

 近藤康太郎『おいしい資本主義』という本がある。最近読んだなかでは面白かった。朝日新聞の記者で、ライターとしても活躍している筆者が、長崎の諫早という田舎の支局に赴任して、記者の仕事を続けるかたわら、会社がいつ潰れてもいいように自分の食い扶持であるお米を仕事の合間に作ってしまおう、という、ゆるい感じのルポルタージュである。

 脱サラで農業をするわけではなく、ただ、いつ会社を首になっても慌てないように農業を片手間にやる、というある意味でいい加減な「オルタナティブ農業」「なんちゃって農業」と本人は呼ぶ。資本主義に対する疑念がたくさん語られている本だが、その解決が、資本主義の流れから、例えば、成長こそすべてちか、コミュニケーション万能とか、そういう価値観からちょっと逃げ出してみる(本人は「ばっくれる」と言う)ことで、それが大事だというのだ。資本主義を否定するのではなく、資本主義の流れにのっている連中の価値基準に、簡単には乗らない姿勢、それが片手間農業ということだというのである。

 つまり、自分の生き方(ここでは仕事)をある価値基準に全部落とし込むな、いい加減な副業でもいいし、首になったときのために資格や手に職を持つとかそういうものでもいいだろうし、要するに、リストラされても、いい仕事が見つからなくても、しぶとく、賢く生きる方法はあるだろう、そういう生き方をしようよ、という本だ。
 
 こういう人を首にしない朝日新聞は太っ腹だと感心するが、ともかくも、人見知りでもいいじゃない、人と喋らずにすむ仕事を見つけりゃいいじゃない、という発想で生きろ、とすすめる本である。私もこの発想は大賛成である。

 学校で就活支援の会議で、私が、みんななんで東京にこだわって職を探すのだろう。地方にだって立派な企業はいくらでもあるし、農業だってあるだろう。地方で就職する、という選択肢がもっとあってもいいのじゃないか、と言ったところ、親が承知しないでしょう。娘を都心の大学に入れたのは、東京で職を見つけるためで、実家を離れて地方に行くなんていったら親は大反対します、と言われた。それなら、地方から東京に出て来た学生だって同じじゃないかと言いたかったが、結局、東京で働きたいというその発想には多少の地方蔑視が入っているのだ。

 生き方は多様なはずなのに、なんで就活のときにその生き方の多様性が忘れられてしまうのか。結局私の不満はそこにある。実にたくさんの企業があるが、就活の時の学生に求められる価値観や能力は、ほぼみな同じである。多様な価値観を持つものとあっても、求める基準は同じなのだ。つまり、生き方の多様性という楽しさや緩さを学生は封印して、第一位のコミュニケーション能力を身につけた、いつでも笑顔が作れる人間として、社会に出て行くのだ。

 この現状をとりあえず私は受け入れている。受け入れなければキャリア教育はなりたたないからだ。受け入れつつ、人間には多様な生き方があるということを伝えている。一年後期の必修に「キャリアデザイン演習」があり、その授業の最後は、一年を全員集めて、各クラスの教員に、自分の就活失敗談を話してもらう。どの教員もすんなり教員になれたわけではないし、けっこう苦労しているものもいる。ある教員は、リストラされた経験を持っている。つまり、失敗したり挫折しても、あきらめなきゃなんとかなるものだ、という話をしてもらう。結局、学生は、この最後の話が一番役に立ったと感想を言う。学生もよくわかっているのである。

弟のことなど2016/03/19 00:09

忘れられないようにブログを更新します。
 三月は私事と校務と休む暇がなく、授業のあるときより忙しかったのではなかろうか。さすがに風邪気味でダウン、熱が出たが、一日休んで復帰。
 弟がパーキンソンで宇都宮の施設で暮らしていたのだが、一月に転倒して骨折。すぐに入院したが肺炎を併発。誤嚥性肺炎とのことで、年寄りに多い。ところが意識不明で重篤な状態になる。肺炎の方は治癒したが意識が戻らない。脳の検査をしたところ、脳幹に梗塞の跡があるとのこと。意識は戻らないだろうとの診断である。
 いわゆる植物状態である。そこで医者に訊かれたのが、胃瘻はしますか?ということだった。いろいろ調べてみたが、ネットなどでの意見はほぼ九割が胃瘻はするべきでないというものだ。しかし、本人が胃瘻を拒否の意志をあらかじめ明確にしていれば問題はないが、そうでない場合、そして本人に意識がない場合は家族の判断になる。が、家族はさすがに胃瘻を止めてとは言えない。胃瘻を止めれば確実に寿命が尽きる。ネットでもこのケースの家族はほとんど悩んで決断できないでいる。胃瘻は意識がなくても身体をある程度回復させる。意識がなくても無理に生きながらえさせるのはむしろ酷ではないか、というのが胃瘻を止めるべきという側の意見だ。だが、そのとき意識がなくても、回復の見込みがないわけではないと判断されたら、胃瘻を拒否できるだろうか。この点を医者に訊いても医者は明確に答えない。
 現在の医学では、外側から意識がないように見えても意識があるか無いかは判断出来ないということらしい。つまり、意識がないというのは、何らかの意志を表現する身体的な手段を奪われている状態を言うのであって、脳の中で何が起きているのかはわからないということなのだ。植物状態でも、目を動かしたり手を動かしたり、言葉を発するなどのレベルまで回復することはあるそうなのだ。
 もうほとんど意識は回復しません、と断言されたら、家族であっても胃瘻を選択するのはためらわれるだろう。だが、回復しないとは言えないと言われたら、たとえ、手を動かしたり片言の言葉を発したりするまで回復するのだとしたら、ためらわず家族は胃瘻を選択するだろう。が、医者はそこをはっきりとは言わない。そこで家族は悩むことになる。
 私も同じ悩みを抱えることとなった。人に相談するとほとんどが胃瘻は止めるべきだという。が、家族はそう簡単には決断できない。一月ほど本当に悩んだ。
 ところが、二月の末頃になって、病院に行くと、看護師が今日言葉を話したという。「おはよう」と声をかけると「おはよう」と答えたというのだ。気分はと訊くと「気分悪い」と答えたという。私が話しかけると目を動かして反応する。何かを言おうとしているのだが、聞き取れない。
 少しばかりだが回復したのである。私は安堵した。この状態をなるべく持続させれば、より多くの言葉が話せるまで回復するかも知れないと、希望が湧いてきた。そのためなら胃瘻でもなんでもして欲しい、という気持ちになったのである。
 身内の生死の判断をこの自分がせまられるなどと思ってもみなかった。実際迫られると、さすがに辛かった。第三者的立場なら当然答えはすぐに出るだろう。が、家族の生死を自分が決めるなどという立場になると、第三者的に客観的にはなれないということがつくづくわかった。この歳になって、人間というものの正体を一つ学んだ気がする。
 さて、少しばかり反応するようになり、寝たきりではあるが病状も安定してきたら、病院から、転院してくれ、と言われた。病院での入院期間は3ヶ月が限度なのである。元いた施設はサービス付き高齢者住宅なので、現在の状態では引き受けられないという。そこで、おなじ市内の長期療養型の病院に転院することとなった。そこでなら三ヶ月以上いられるということである。
 身内は私一人だけだから、とにかく私が手続きを含めて全部やらなくてはならない。大変だが、とりあえずは何とか療養できるめどがたった。一安心というところである。

しばらくぶりのブログです2016/02/11 00:21

 しばらくブログを休んでいたが、問い合わせもおおいので久しぶりに開始します。理由はいろいろあって、と言うしかない。忙しいのはいつも通りだが、どうも人に向かって文章を書くような余裕がなかったというのが正直なところ。

 でも、どんなに余裕がなくても、仕事はあるし、日常をきちんと過ごさなくてはいけない。それが救いであることもあるしまた辛いことでもあろう。たとえブログのような文章であってもそれなりの余裕が必要なのだとあらためて人に向かってものを言ったり書いたりすることの持つ意味を知らされた。

 こういうことを書くと何か自閉的な生活をしているようになってしまうが、決してそうではない。原稿も書いているし、学校の雑務も人並み以上にこなしている。本もけっこう読んでいるし、毎日のように奥さんと借りてきた韓流ドラマを観ている。

 韓流も最近はほとんど現代もののドラマばかりである。当たり外れはあるが、けっこう見始めるとはまるのが多い。今まで見た韓流現代もので、私のおすすめは「天地人」だ。このドラマを観てキムチを見直した。「天地人」はだいぶ前のドラマだが、最近で一押しは「ミセン」だろう。韓流おきまりのどろどろ恋愛劇や復讐物語でなく、一流商社に契約社員として入った高卒の若者の成長物語だが、会社という組織とぶつかりながら、夢を追い悩み挫折しという商社マンの描き方がとてもいい。

 恋愛、交通事故、復讐といったおきまりパターンで面白かったのは、「伝説の魔女」。SF系の恋愛ドラマとしては「星から来たあなた」がおすすめ。スーパーマンみたいなイケメンの宇宙人がわがままで落ち目の女優と恋仲になるという荒唐無稽な物語だが、女優の演技が抜群で、笑いながら観ていた。タイムスリップものでは「屋根裏のプリンス」があるが、これもまあまあ面白い。

映画では「国際市場で逢いましょう」がよかった。中国映画の「唐山大地震」も泣けたが、これも泣ける映画。両方とも、朝鮮戦争や大地震で離ればなれになった家族の再会の物語。

 読書では、面白いと思ったのは、橘玲『(日本人)』(幻冬舎文庫)。この日本人論、けっこう目からウロコが多い。意外な統計資料を使って日本人の世俗性、個人主義、合理的な生き方を明確に論じて行く。国家をフレームワーク(枠組み)だけにして、退出自由な無数のグローバル共同体を創造していくという作者のユートピアには賛成だが、伝統的共同体などすでにないものの如く論じて行くところが不満である。この人は共同体というものを、人々が必要に応じて作ったり壊したり出来るものとみているところがある。そう簡単なものでもない。

 エンタメ系としては、村上龍『オールドテロリスト』、米澤穂信『王とサーカス』、与澤田瞳子『与楽の飯 東大寺造仏所炊屋私記』。ピエール・ルメトール『天国でまた会おう』上下などを読んだが、特におすすめというわけではない。

 まあ、こんな調子で、忙しく過ごしているというところです。

「情けなさ」の系譜2015/12/14 01:18

ブログも久しぶりである。いろいろ忙しいのと、書くこともないので、という感じでつい書かないで過ごしていた。心配する人もいるので、近況報告です。

 とくに報告することもないのだが、愛犬チビが「Wan」という犬の雑誌に載った。2016年1月号で今発売中。保健所から救い出されて里親になった経緯や、最初は目も合わせなかったのだが、だんだんと飼い犬らしくなってきたことなどが書かれている。

 この時期は、チビのカレンダー作りで悩む。毎年チビの写真を入れたカレンダーを印刷して、チビのことが好きな知り合いなどにあげているのだが、12ヶ月分のチビの写真を探すのが大変なのである。苦労して何とか昨日作り上げた。

 今週学生たちとクリスマスパーティをひらくことになっていて、このチビのカレンダーは私からのプレゼントとして出している。けっこう人気がある。今年の学年はけっこうイベント好きで、先週も「ブックパーティ忘年会」を開催した。二十数名集まって盛況だった。ただの忘年会では芸がないので、少しは読書会らしく、冒頭に、私が又吉直樹『火花』について語る講演を行った。タイトルは「情けなさの系譜」である。

 私は、せきしろと又吉が出した自由律俳句句集『カキフライがないなら来なかった』(2009)がでたときから面白く読んでいて、続篇の『まさかジープで来るとは』も読んでいる。彼の句はあきらかに尾崎放哉の影響にあるが、一方、太宰を師と仰ぐ。つまり、放哉、太宰と続くこの流れを「情けなさの系譜」と名づけ、その系譜に又吉がいると論じたわけである。

 尾崎放哉には次のような句がある。

  つくづく淋しいわが影よ動かしてみる
  一日もの云わず蝶の影さす
  たった一人になりきって夕空
  障子しめきって淋しさをみたす
  こんなよい月を一人で見て寝る
  笑へば泣くやうに見える顔よりほかなかった
  釘箱の釘がみんな曲がって居る
  トンボが淋しい机にとまりに来てくれた
  咳をしても一人
  とんぼの尾をつかみそこねた
 
 エリートから酒が原因で転落し、放浪の果て41歳で死ぬが、それは世を捨てるというようなかっこいいものではなく、孤独な自分を見つめる「情けない」ものだった。その「情けなさ」を素直に言葉にしたのが自由律俳句である。
 放哉を敬愛した『カキフライがないなら来なかった』の又吉の句は次のようなものである。

  二日前の蜜柑の皮が縮んでいる  
  転んだ彼女を見て少し嫌いになる
  愚直なまで屈折している
  ほめられたことをもう一度できない
  平日の午後友達の友達から隠れる
  蝉の羽に名前を書いて空に放した
  祖師ヶ谷大蔵と言いたかっただけ
  へんなとこに米が入って取れない
  縄跳びが耳にあたったことを隠した
  ガムを噛む顔が調子に乗っていた
  自分のだけ倒れている駐輪場
  まだ何かに選ばれることを期待している

 このギャグといってもいいような自分の小さな「情けなさ」がとてもおもしろい。
 『火花』はむしろ太宰の系譜だろう。太宰は「情けなさ」を徹底して生きた作家だが、自殺未遂という常軌を逸した行為を繰り返す。小説もその生き方も痛々しい。が、深い共感を太宰に感じるのは、その痛々しさが、傷つく事を承知で純粋に自由に振る舞おうとするからだと理解出来るからである。
 『火花』は天才的で破滅型の先輩芸人神谷のはちゃめちゃな生き方を主人公徳永がいとおしむように見つめる、という小説である。「情けなさ」の系譜は神谷が担っている。読者は、直接神谷向き合うのではなく、又吉である徳永のやさしいまなざしによって神谷を知ることになる。この描き方が抜群である。たぶん、直接知り合ったらどうしようもない芸人であろう神谷が「情けなさの系譜」に位置するように見えるのは、太宰の系譜のなかにいる存在であるかのように神谷を見つめる徳永の共感故である。
 『火花』がこんなに売れたのは、多くの人が、久しぶりに痛々しい「情けなさ」に共感する優しい気持ちを持てたからに違いない。たぶん、わたしたちのこの社会は「情けなさ」をあまりに許容できない社会であるから、又吉のような「情けなさ」を言葉にする芸(小説もだが)に、みな共感するのだろうと思うのだ。

 以上のような話をしたのだが、一部の学生には共感してもらえたようである。ふだん、私は、就活のために「情けなさ」の反対に振る舞えと指導している。就職率をあげることが生き残るための至上命題だからで、私もフラストレーションがたまっていたのだ。又吉を借りて、「情けなさ」も大事だと主張したのである。

仙薬と生きがい2015/11/01 00:42

 10月がようやく終わった。今日は九月に亡くなられた理事長の学園葬。著名人であるから、参列者も多かった。理事長は私の母より三歳ほど上だった。私が勤め始めたときも理事長で、ずっと理事長だったから、たぶん、かなり長生きされて私が定年で辞めてもまだまだ理事長でいられるだろうと思っていたが、やはり、命は永遠ではないのである。

 かくいう私だって老年と言われてもおかしくない歳であり、いや間違いなく老人とみられているから、いつまでも生きていられると思うな、と言い聞かせることにはしている。が、それはわかっていても、死ぬまで生きるというしかないわけで、その生きる時間をなるべくなら平均以下にはしたくないというのが誰でも正直に思うところだろう。

 昨日はいつものところで大腸検査。これも平均以下にはなりたくないというあがきである。まあ特に異常はなかったのでとりあえず一安心である。何せ今年は、肺がんと前立腺がんの疑いをかけられて、ひょっとすると平均以上は無理かもと思った年だから、大腸は何とかクリアできたというところだ。

 この歳になると、私の兄弟も奥さんの両親も、知人や知人の親も、みんな病や老化と戦っている。奥さんの両親は九十歳を越えて、老夫婦だけで暮らしているが、娘二人が時々世話しに通っている。私も、弟が施設に入っているので、やはり月一は通っている。

 老化も病も、人間の身体の自然なうつろいの現象の一つであって、抵抗してもしょうがないというところがあるが、かといって、無抵抗というのもおかしい。「癌と戦うな」という本があるが、私が癌の疑いをかけられたとき、この本のようには対処出来ないとはっきりとわかった。一日でも長く生きたいと願うのが人間の本性であって、リスクをともなう治療を拒否して自然の流れに任す、なんていうのは、病にかかった当事者には悟りをひらけというような説教であって、そんなに簡単には人は悟りをひらけないのである。

 たまたま大伴旅人の次のうた歌を市民講座で読んでいた。
 我が盛りいたくくたちぬ雲に飛ぶ薬食むともまた変若めやも(巻五・847)
(わが盛りの命もすっかり衰えてしまった。雲の上まで飛び行くほどの仙薬を服したとしても、若さが戻ってくることなどどうしてあり得よう。…訳は全解)
旅人は太宰府でこの歌を歌い都に戻って数年で死ぬ。当時は神仙思想が流行し、不老不死の幻想に憧れていた。仙薬は、秦の始皇帝が道士に献上させ服した結果命を縮めたと言われているが、八世紀初期の貴族たちも、水銀などの鉱物を処方した仙薬を飲んでやはり命を縮めたらしい。不老不死とは言わないまでも、少しでも長生きしたいのは人間の本能である。旅人は仙薬を飲んでも死なないことなんてあり得ないと詠んでいるが、まっとうな歌である。

 旅人は次のようにも歌っている。
(雲に飛ぶ薬食むよは都見ばいやしき我が身また変若ぬべし (848)
雲の上まで飛び行くほどの仙薬を服すよりは、都を一目見るなら、この賤老のわが身も再び若返るに違いない)

都に帰れるなら自分は元気になれると歌う。郷愁の歌だが、要するに、残り少ない人生でもそれなりの生きがいや願いはあると言っているのだ。年老いれば当然目的のようなものの数は減るが、しかし、それへの想いは強くなる。やり残しては死ねないと思う。そう思えれば生きられる。都に帰れば仙薬を飲むより効く、なんてことが私にもあるのか、と問うと、暗澹となる。ないわけでもないが、仙薬を飲むより効けばよいがといったところだ。現代の仙薬は昔と違ってかなり効きそうであるから。

精神科医の前で発表2015/10/04 00:12

 ブログもひさしぶりである。忙しくて書けなかったのだが、かつては忙しくても何とか書くことを続けていたのだが、最近、その気力が少しばかり失せてきた。以前のように、無理のきかない身体になったということもあるが、書くネタもなくなってきたというのもある。が、ひさしぶりに書くネタができた。

 今日、慈恵医大国領校で、多文化間精神医学科会学術総会があり、そのシンポジウムにパネラーとして出席し発表してきた。いやあ緊張した。精神科医の前で、「哭き歌」のテーマで歌の機能について話したのだが、わたしだけ文学専門で、他のパネラーはみんな精神科医や心理学専攻の人たちである。たまたまこの学会の会長と知り合いだったので、私が雲南省のフィールドワークをやっているのを聞いて、何か話をしてくれと言われたのである。

 人とのつきあいは時に思わぬ機会を与えてくれる。あまり人との付き合いのない私であるが、時にこういうこともあるのだ。懇親会で、出席者からとても参考になったと言われてほっとした。まったく通じなかったのではと心配していたのである。

 雲南省のイ族の「哭き歌」と奄美の「哭き歌」の比較をしてみた。奄美の「哭き歌」は酒井正子『哭き歌の民族誌』を参照したもので、非常に参考になった。特に徳之島の「愛惜歌」には驚いた。昔読んだ時は気づかなかったが、この「愛惜歌」けっこうすごいのである。なにがすごいかというと、遺族が四十九日ずっと「哭き歌」を歌い続けるのである。ふつう、「哭き歌」は葬儀の始まりに見られるもので、葬儀が終われば、いつまでも死者への思いを引きずるような歌は歌わないだろう。死者をこの世に留めず、未練を無くし、あの世に送り届けるためには、「哭き歌」は障害になるからである。それは、死のケガレに触れてしまうことにもなる。生者と死者の間に明確な切断線を引くのは多くの文化で見られるが、徳之島ではそうではないのだ。

 中には死者と対話するように「哭き歌」を歌う場合もあると酒井正子は述べている。「哭き歌」はフロイト的には「悲哀の仕事」の歌による実践だが、「悲哀の仕事」である以上その仕事から解放されないと、病になる。この考え方からすると、心理学的には徳之島の「愛惜歌」はほとんど心の病の世界である。

 むろん、病なのではない。これも文化なのだ。死者を忘却して日常に戻ることを潔しとしない、死のケガレを恐れることより、死者への悲しみを引きずることの方を大切に思う文化なのである。この文化、実は歌が大きな働きをしている、と歌の機能の問題として語ることができる。以上のようなことをシンポジウムでは話した。

 11月7日では奈良の「奈良春日野国際フォーラム甍」で私が事務局をやっている学会のシンポジウムが開催される。そこでのテーマが「葬送と歌垣」である。これも死と歌がテーマだ。死者の葬儀になぜ歌が歌われるのか。こちらは「哭き歌」ではなく「歌垣」であって、どちらかというと、楽しい歌の掛け合いである。これも実はよくわからないのだ。古代の文献には確かに葬送儀礼に歌や踊りが伴うという記述が出てくる。まだまだわからないことが多い。

 シンポジウムの席上で、歌と国家との関係の質問があった。歌は癒やす力を持つが国家に利用されるものではないかというのである。時節柄の質問である。実は、11月に頼まれた原稿があり。そのテーマが「戦争と歌の力」である。みなつながっているのだ。