もう夏も終わりですが…2016/09/13 17:35

 涼しくなってきたからというわけではないが久しぶりのブログです。
 八月十四日に中国の調査から帰国。それから一ヶ月近く、体調が優れないのと、勤め先の短大の第三者評価の実地調査への準備、論文の準備等々、慌ただしく過ぎ、何とか、一段落というところ。第三者評価の実地調査が先週で終わり、受け入れがわの責任者である私もほっとしたというところである。

 この第三者評価は七年に一度受けることになっている。七年前も私が責任者でのこの評価を受けた。大学の教育やガバナンスが適切かどうか調査を受ける、ということなのだが、調査するのは、同業の他短大の教員が主体になる。実は、私も、他の短大に実地調査にいったことがある。大学にも民間の格付け会社と同じような組織があって、その組織による評価、つまり格付けをもらわないと国から補助金がもらえない仕組みになっている。

 国から直接評価を受けるよりはいいシステムだが、評価基準はだいたい文科省や審議会が作った指針なので、ある意味では、全国の大学・短大が国の指針どおりに教育やガバナンスを行っているかどうか、格付け会社が審査する、と言えなくもない。が、こういった評価制度はないよりはあったほうがいい。とりあえずは、教育やガバナンスが第三者の目にさらされるわけで、そのことの緊張感は、大学の組織を一時的とは言え健全なものにするからだ。

 短大の場合、評価する委員の属す短大も共通して危機的なので、場合によっては、実地調査は、評価というより、どうやったら生き残れるか学び合いということにもなる。それもまた当然だろう。国の指針通りにいくら頑張って教育しても、少子化が進む現状では短大志願者は減るばかりである。これは高等教育機関の構造的な問題でもあるので、日本社会の短大の位置づけが変化していかない限り解決がつかない。そのようななかで、何とか生き残る方策を考えなくてはならない者同士が評価し評価される場では、評価する側も、何か参考になりそうなところを見つけて帰ろうとするのは自然である。私も評価委員として他校に行ったときはそうだった。

 中国の調査では、雲南省のモソ人の村に入り、葬式を三日間取材できた。限られた日程で葬儀に出合いしかも取材が許可されるのはほんとうにめったにない。同行のE君が昔から通っている調査地で、その村の宗教者と親戚づきあいのような関係を作っていたおかげである。

 亡くなったのは高齢のおばあさんなので、どちらかと言えば悲しい葬式ではない。が、それでも、遺族は死者の前では徹底して哭き歌を歌う。今回の調査で一番記憶に残ったのはこの哭き歌である。

 喪主の娘はけっこう年を取っていて、忙しく葬儀の様々な仕事をこなしている。が、村の人が弔問に訪れると、位牌の前で哭き崩れる。実は、それが哭き歌になっている。哭き歌を続けると一人では立ち上がれず、抱えられて立ち上がる。ところが、すぐにもとに戻り忙しそうにかけずり回るのである。

 村の女性たちが位牌の前に坐りやはり泣き崩れる。これも哭き歌である。死者にくどく言葉を歌いながら泣き崩れる。何人かは一人では立ち上がれなくなる。その光景を目の当たりにしながら、これはほとんど憑依であると感じた。女性たちは、位牌の前で手を合わせるとスイッチがはいったように哭き歌を歌い始め、一人では立てなくなる。これを葬儀の間何度も繰り返すのである。特に興味深いのは、最後に荼毘にふすときも、そのすぐ近くまで女性たちは付き添い哭き歌を歌うことである。イ族の葬式では、女性たちは荼毘の場所には行けないという遠藤耕太郎の報告があるが、モソ人は違うのである。私の印象では、この葬儀は、ラマ僧の読経と、女たちの哭き歌で進行していった。

 このような哭き歌を実際に見られたのは収穫であった。とにかく哭き歌に圧倒された。近く建物ではきらびやかな衣装を着けたラマ僧がお経を唱えている。18人はいる。これもすごい。そんなに裕福ではない農家の葬式に僧たちが18人も来て、儀礼を行うのである。日本で言えば、大きなお寺の僧侶が全員来て葬式をやるようなものだ。当然費用もかかかるだろう。死者を送る儀礼が長時間(三日間)厳粛にしかもお金をかけて行われる。そのことにも圧倒された。

 この「哭き歌」、歌の研究をしている私にとって衝撃だった。哭くという行為が、憑依に近いものであることがよくわかった。それにしても、この葬式でも男は泣かない。ここにもジェンダーによる役割分担がある。男たちは様々な儀礼をこなしながら粛々と死者を送る儀礼を進めて行く。女たちの「哭き歌」は時にこの儀礼の進行に逆らうようにも思われた。葬儀には必ず、死者をあの世に送る流れと、その流れを阻止する哭く感情とのせめぎ合いがある。そのせめぎ合いが実によくわかる葬儀であった。

 さて、七月から八月にかけて私は、田中芳樹の『アルスラーン戦記』全15巻。『銀河英雄伝説』全10巻、小野不由美『十二国記』全巻(十一冊)を読破した。上橋菜穂子の『精霊の守人』シリーズを読破している私としては、ファンタジー系のシリーズものを一応目を通しておこうと思って読み始めたが、とまらなくなり、全巻読破したという次第。おかげで勉強の時間がだいぶ減った。感想は述べないが、やはり、いろいろ読んで見て上橋菜穂子の描くファンタジーがすごいということだけは言える。上橋菜穂子の新作を期待している。

 韓流ドラマも相変わらず奥さんと見続けている。今見ているのは、「私はチャンボリ」で衝撃を受けた、あのミンジョンを演じたイ・ユリが出ている「きらきら光る」である。「私はチャンボリ」はこの「きらきら光る」の後に作られていて、言わば進化形である。つまり、ここでもイ・ユリは、貧しい境遇からひょんなことで金持ちの娘になるグムランという女性を演じている。彼女は、明るいヒロインに嫉妬し、自滅の道を歩む。つまりだんだんとミンジョン化していくのだ。いやあこれも面白い。はまります。