近くの温泉に行く2006/12/17 00:32

 今日は午後学内のセンター試験説明会。これだけのために学校へ行く。行き帰りの電車の中で本を読もうとしたが、眠くてだめだ。週末は疲れが出る。

 6時から学会の委員会があって、京都からMさんが来るとのこと。来年の科研の打ち合わせもあるとかで会う予定はしていたのだが、センター試験の説明会や、疲れが出たこともあって、キャンセルした。

 帰ってから夕食を外で食べようということになったが、ついでに温泉に行こうという話になった。近くに初雁温泉という施設がオープンしたのだが、そこへ行ってみようということになった。最近、東京もそうだが、川越近くでもこういう温泉入浴施設があちこちに出来ている。狭山の埼北ハムに「牧場の湯」という温泉施設があって、時々行く。ただ、ここは遠いのと値段が高い。割引でも一人1000円する。

 初雁温泉は車で15分程で行けるし、値段も割引で700円である。露天やサウナなどあって、掛け流しだし風呂も悪くはない。山小屋に行っている時は、いつも近くの温泉に行っていた。山小屋に行くときの一つの楽しみだったが、川越で温泉に入れるなら、こっちも悪くはない。

 湯上がりに温泉内で食事をしてビールを少し飲んで帰ってきたら、身体がふらふらしてきて、つい寝てしまった。これから本を読まなきゃいかんというのに、回復するのに時間がかかった。 

  最近頭が和歌(馬鹿じゃありません)になっている。面白がっている理由は、われわれが知っている文学の普遍性の時間的なスパンを、どれだけ遠くに遡らせることができるか、和歌はそれを試みるための「表現」資料だと思うからだ。

 かつて、古代文学を近代の内面であたかも理解できるような印象批評に対して、批判してきたのだが、今は逆を考えている。近代の文学を生み出す人間の内面が、近代になって生まれたというのはどうも嘘ではないか、というように思うようになってきた。というより、われわれが内面だと思っているその内面なんて、ただあると思っているだけのもので、そんなものないのかもしれないし、あるいは、言葉がその言葉によって表現しえない世界を抱え込むときに、必ず生まれ出るひとつの現象みたいなものではないか。

 とすれば、内面は言葉とともに常にあったはずだ。シャーマンが神の言葉を語っていた時代も、万葉の時代もである。むろん、時代によって違いはあるとしても、内面であることに変わりはないというとらえ方をむしろ積極的にしてもいいのではないか、と思うようになったのである。

  近世の国学者が和歌に普遍性を積極的に見いだしたのは、漢才に対抗するためだったにしろ、和歌に内面を発見したからに他ならない。国学者が発見した和歌の内面は、国学者への批判とともに重要視されてこなかったが、もう一度検討されるべきではないかと思っている。そう思わせてくれたのが清水正之『国学の他者像』(ぺりかん社)である。少し難解だったが刺激を受けた。ただ、国学まではとても手が回らない… 

     内面を内面を見つめ湯冷めする

     とりあえず「こころ」を読めと漱石忌