私語は許しません2006/12/07 00:32

 私の学科では「千字エッセイ」というのを学生から募集し、優秀作を表彰しているのだが、作品がなかなか集まらない。三年目で、前期・後期とやっているのでさすがに学生も疲れてきたのかもしれない。だが、わが学科は文章を書かせるということを一つの目的にしているので、だからと言ってやめるわけにはいかない。ここに入ったら嫌でも文章を書かなきゃいけない、という雰囲気をどう作るかが大事だ。

 こういった試みというのは、最初はいいがそのうちに必ずだれてくる。教員側がだれると学生はすぐにそれを見透かすから努力をしなくなる。どうやらこういう悪循環に陥り始めているようだ。解決策は教員に頑張ってもらうしかないのだが、これが難しい。学科の長として頭が痛い。私が頑張っても空回りするばかりで、だめなのだ。人をその気にさせるというのは、教育も職場もまったく難しい。

 でも、こつはわかっている。褒美をあげることなのだ。実に単純なのだが、これには金がかかるので別の意味での困難さがつきまとう。いやはやなかなか思う通りにはいかないものです。

 大学では、学生に対して出欠の管理を含めて厳しくしようとしている。教員に対しても遅刻や休講に対して厳しい。シラバスを授業日数分書くように指導しているし、シラバス通りに授業しろという。これも、実は、授業料という高額のお金に見合う価値を生産しろということである。学生に厳しいのは、お金を出す親の期待を裏切らないためである。
 
 何故、こんなに厳しくなったのか。大学で得る知識が現実的な金額によって計算できるようにみんなが思い始めたからである。つまり、お金に換算できない人間の内面的な価値やその将来については、教育というシステムには入れないようにし始めたからである。これは、大学が変わったというより、社会がそうなってきているからだ。

 徹底して功利主義的になってきているということだ。学生はどうやって授業をさぼるかに工夫をこらし、休講を喜び、教員もいい加減に成績をつけ、今日は何をしゃべろうかな、などとその日の気分で授業内容を決める、なんてうらやましい大学はすでに過去の話で、それが可能だったのは、企業も終身雇用で、負け組をそれほど生み出さない安定した社会だったからだ。今は、とんでもない。社会はけっこうきつくなっている。

 こういう社会に学生を送り出すことを引き受けている以上、おおらかなゆるい教育など出来ないというのが私の置かれた立場だ。好きな立場ではないが、仕方がないことだ。でもそれでも楽しくはやれるはず。そう思って、学生とはなるべく楽しく付き合っているが、授業中の私語は絶対に許しません。けじめはつけなきゃ。

     ボーナスの頃なのに行く顔暗し

     冬の空歌あれば鬼神も涙す

情愛の人2006/12/07 23:49

 富岡多恵子の『釈超空ノート』をほぼ読み終える。ほぼというのはまだ数頁のこしているから。これはトイレの読書。富岡多恵子には悪いが。折口と同じ大阪生まれの富岡は、徹底して、大阪人のしかも同性愛者の折口信夫にこだわる。この本でだいぶ教えられることが多かった。

 とにかくこの本によれば、折口というのは徹底して「情愛」の人である。それも同性のものに対する。折口が東京に出た折に同居した藤無染の存在が、折口という存在のキーワードになっているが、藤無染ばかりではなく、教え子への情愛の激しさにも改めて驚かされる。

 たぶん、釈超空の歌を、徹底して同性への激しい情愛の現れとして解釈した本はこの本以外そうはないだろう。ちょっと解釈のしすぎではないかと思うところもあるが、説得力はあった。ただ、万葉の歌を読むとわかることだが、「情愛」を描く関係は、必ずしも男女の関係とは限らない。同性同士でも親子でも、相聞と変わらない「情愛」の表現はある。もともと、和歌とは、「情愛」を表現の価値とするところがあるからだ。つまり、まず先に「情」の迸りが価値(美)としてあって、その「情」を生み出す様々な関係が後からついてくる、ということだ。

 だから、教え子に対する「情愛」の歌を、そのまま同性愛という異性愛とことさら区別する言葉の響きで強調するのは、やや危ないという気がする。

 それにしても、富岡多恵子の立場というのが実に見えてこない本だ。ある意味でねちねちした文体は、本音を語らない文体だと言えようか。簡単には本音をさらすまいと言う無意識の防御が、軟体動物のような身のくねらせ方のような文体ともなっている。その態度は、短歌に対する語り方にも現れている。徹底して、その短所を小野十三郎の言葉を使って語るが、かといって、批判するわけでもない。

 富岡多恵子は「叙情」が好きなのか、嫌いなのか。好きでないのは確かだが、嫌うわけでもない。ただ執着して論じている。頭で語るのではなくて、身体に根ざした力で語っているということか。いかにも詩人で、浄瑠璃のような語り芸にこだわる人の文章だと感心した。

埋み火を見つめているや釈超空