家持同性愛説2007/07/19 00:29

 柏崎に地震があった日に、私は山小屋から帰る途中で、車を運転していたので地震を知らなかった。テレビなどでその様子が伝わってきたが、古い家とお年寄りの被害が目立つ。それにしても、古い家でもないのに、何で原発が地震で被害を受けるのだろう。普通の家は壊れずに残っているというのに、地震に耐えうると何度も強調してきた原発があんなに地震に弱いとは、日本の建築技術の問題というよりは、何かを隠しながらものごとを進めてきた体質がこのような形になって現れたということか。年金問題と同じような気がする。

 月曜は、小淵沢の店に寄って、学生への副賞に出すペイパーウェイトを20個受け取った。一個一個揺れるとみんな鐘の音がする。それから、中央高速で帰り、途中釈迦堂のサービスエリアに立ち寄り、釈迦堂の博物館に行った、サービスエリアから歩いて7分くらいでいける。ここは二度目である。中央高速を作るときに遺跡の発掘が行われ、縄文時代中期の土偶が1000個以上出てきた。日本の土偶の出土数からすると、圧倒的にここが多い。しかも、個々の土偶はみんなバラバラに壊されていた。どうやら、人為的にバラバラにされたらしく、部分部分は意図的にあちこちに埋められている。

 これは何故かという解釈はいろいろあるが、東南アジアのハイヌヴェレー神話や、古事記のオオゲツヒメ神話から説明するのが一般的になっている。土偶は女性であり、妊婦の形のように下半身がふくらんでいる。壊して埋めることは、豊穣を祈る行為であり、死と再生という意味合いがある。

 火曜は会議日で一日会議。今日は、ペーパーウェイトを運ぶので車で通勤。夕方もと岩波の「世界」の編集者で、大学で文章表現の授業を受け持ってもらっているU氏が訪問。授業の様子をいろいろとうかがった。学生が神保町の古本屋に行って事がないというので、古本屋巡りをさせレポートを書かせたことなど楽しく語ってくれた。この後どこか行きませんかと飲みに誘ってくれたが、あいにく車で来ていて、しかも、仕事も山積、お断りした。

 夏の雲南調査旅行の打ち合わせを電話でしているうちに、どうも、少数民族の農家に4日間泊まることになっているということを知った。日本からは二人で行くのだが、もう一人に、それは無理だよと話した。農家には宿泊の設備はない。だいたいトイレもない。ダニなどの虫も多い。私も今までさすがに農家で泊まったことはない、一泊くらいなら何とかなるが4泊は無理である。若くて体力があればいいが、この歳になってはきつい。何とか近くの町の招待所でいいから捜すように頼んだ。

 千字エッセイの審査を今行っている。明日には発表だ。とても力作が多い。正直みんな文章が上手くなっている。

 呉哲男の、大伴家持関係の論文を昨日から読んでいる。家持の交友について論じている。大伴家持と大伴池主との贈答歌は恋愛を装うものだが、二人は同性愛だと言い切ったとても刺激的な論で、一時話題になった。むろん、たくさんの反論があった。

 今読み返してみると、ホモセクシュアルな関係というよりは、ホモソーシャルな関係という理念で論じたかったのだろうと思われるのだが、そこのところでやや曖昧になっているのがよくわかる。ホモセクシュアルとまで言うと、個人の深い内面もしくは性癖の問題になるが(社会的には当たり前だから)、そこに踏み込むと、論自体がスキャンダラスな装いになる。多少それを狙ったのだろうが、呉さんは官人たちのホモソーシャルに世界へと論を着地するためにけっこう苦労している。

 問題は、官人たちが何故自分たちの交友を歌にするときに男女の恋愛関係を装うのか、ということだ。それを男同士の同性愛というレベルで押さえるのか(異性愛という秩序を揺さぶりたいイデオロギーの臭いがするが)、それとも、違う押さえ方をするのかだ。私は違う押さえ方をしたい。家持が同性愛者である可能性がないわけではないが、むしろ、ここはジェンダー論を括弧にくくって、彼等官人の情調を介した共同体のあり方の問題であると押さえたいと思っている。

      かまびすしジェンダー論も梅雨明けぬ

「男色大鑑」2007/07/21 00:47

 今日は久しぶりに家で一日勉強。昨日までは毎日会議で夜も遅く大変だった。来年のカリキュラムのことや、編入の選考、千字エッセイコンテストの審査など、いろいろあった。千字エッセイの審査は12名の入賞者。学長賞は見送り。なかなか審査員全員がこれだというのがなかったので学長賞は出なかった。だいたいの作品の評が割れる。

 審査する教員好みというか基準の仕方が違うからだが、ある意味では、いろんな見方があっていいので、それでいい。 文章のうまさを見ようとする人、感動するかしないかに力点を置く人といろいろいろである。私はどちらかというと感動の方に力点を置くが、ただ、感動を伝える内容は、題材が正否を決めるので、ほんとうに感動的な体験があるとそれだけ得である。だが、逆に、あざとくなるというリスクもある。

 千字で人を感動させるのは結構な技が必要である。が、中にはその技だけで書こうとするものがいる。ある意味で手慣れている。こう書けば感動するだろうという計算が無意識に働く。そういうのをあざといという。

 私は素直な文章が好きだが、中には嫌いな教員もいる。むろん、素直なのは明るいと言う意味ではない。暗い素直さもある。が、文章には、客観的であることや、物事を相対化したり批判したりするまなざしも必要だ。そういう文章には感動はない、ただ感心するだけだ。千字で感心させるのはなかなか難しい。だからどうしても感動派が賞を多く獲るということになる。それはそれで仕方がないと思う。

 学部への編入学特別推薦の面談を昨日行う。試験無しで編入できる制度だが、成績優秀者でないと推薦はできないことになっている。面接は、志望動機や、どんなことを研究したいのかなどと聞くのだが、一人の学生が、江戸時代の武士の男色について研究したいと言った。さすがに、なんでまた、と聞き返した。

 要するにある教員の影響で、井原西鶴の「男色大鑑」の講義を受けて興味を持ったらしい。特に武士と死の問題を男色の世界で考えたいということだった。それにしても、二十歳の女子大生が「男色大鑑」を面白いと思うとは。いやたいしたものだ。教員の影響というものを改めて思う。

 明日は奈良の橿原神宮、万葉ミュージアムで会議。京都に泊まって、次の日に東京入谷で万葉集のささやかな講演。テーマは歌垣でやろうと思っている。相変わらず忙しい。

    冷や麦や静かな午後に出されけり

追い込まないとアイデアが…2007/07/23 01:41

 今回の奈良明日香は小雨模様で人もほとんどいなかった。万葉ミュージアムも暇そうだった。大丈夫だろうか。橿原神宮駅でバスに乗るのだが、ちょっと時間が空いたのでK氏と駅の周りを歩いたが、商店はほとんどない。ただ、駅前にはパチンコ屋の大きな建物があるばかりだ。それにしても、何でこんなに閑散としたところなのにパチンコ屋だけが駅前の一等地に潰れずにあるのか不思議である。

 どこの町でも同じだろう。川越の駅前にも駅ビルの一階に入っている。私も学生の時など暇なときは通ったが、それ以来ほとんど入ったことがない。金と時間がもったいない。そんなに暇ではないのである。パチンコで生計費を稼いでいるのは少数派だろうから、たぶん、暇つぶしが一番多いのだろう。田舎町にパチンコ屋が多いのは、田舎には仕事のない人達が多いからだ。お年寄りが年金をつぎ込んでいるという話を聞く。

 人間、歳をとっても穏やかに生きるというのは難しい。パチンコのような賭博性のあるゲームもまた必要なのかもれしない。老人の多い、穏やかそのものの閑散とした地方にパチンコ店の派手な建物を見る度に、人間の業のようなものを感じるのである。

 今回はK氏の発表で、ペー族の歌垣と万葉の比較がテーマだが、名前を尋ねたりすることや、噂の事例などを取り上げて比較をした。こういう比較は最近やっと出来るようになった。それだけ少数民族の歌垣資料が出てきたからである。ただ、万葉との比較はなかなか難しい。万葉は歌垣の歌ではないからである。が、根っこのところでつながっているのは間違いない。比較をすれば、逆にその違いも明確になり、万葉集の歌を知ることにもつながる。次回は私の番だが、どうなることやらである。

 沖縄からきたKさんと京都のMさんと京都の小料理屋で食事。値段は高いが美味しい和食であった。次の日は午後、東京入谷の公民館で万葉の話をする。ペー族の歌垣資料や、ついでに、前日のK氏のレジュメなども紹介しながら、歌垣と万葉集の類似や違いなどの話をした。

 夕方家に帰ったが、奥さんは今日山小屋に行っていない。私は、来週の岩波の座談会のテーマである、八世紀の文学というテーマについて万葉の勉強。とにかく、万葉の歌を読む。何度も読んできたが、何か万葉の歌について考える度に読み直す、その度に発見があるから面白い。ただ、なかなかいいアイデアが見つからず落ち込んでいたが、テレビをつけたら「プロミス」という中国の映画をやっていた。何気なしに見ていたが、あまりに荒唐無稽で逆に面白くてつい見てしまった。見終わって時間を無駄にしたと後悔。いつもそうだが、自分をぎりぎりまで追い込まないとアイデアは出ない。こうやって疲れていくのだが、考えてみれば自分を追い詰めて一種の興奮状態に持っていくということだ。パチンコをやっているようなものだ。これもまた業であるのかも知れない。

      炎天をものともせずや人の業

何とかレポート提出2007/07/24 00:53

 心配した基礎ゼミナールのレポートが全部出そろった。6つのグループに分けて、それぞれにテーマを捜し、それについてレポートにまとめる課題を出したが、4週間ほど費やしてみんな何とか形にした。

 いわゆるグループワーキングで、こういうのは初めての体験の学生もいた。1グループ六人だが、それぞれ個性が出る。最初一番まとまりの悪かったグループは、神保町の古いカルタの店に取材に行き、それをそれぞれがレポートにまとめた。私がいつも取材に使う簡単な録音機を貸してあげた。結果的にそのグループが一番ユニークなレポートになった。

 グループで話し合い一つのことをまとめるのは大変である。一応、そういう大変さを体験してもらうのが授業の目的でもあるので、とりあえずは成功したと言えるだろうか。レポートは全部でA4用紙70枚に及ぶものだが、これを印刷してレポート集にまとめ、全員に配る。大変だが、いいものになると思う。

 悪戦苦闘した基礎ゼミナールであったが、何とかうまくいった。ホットしたというところだ。

      蝉時雨一区切りして声揃え

思ふどちに悩む2007/07/25 00:51

 猛暑の夏という天気予報が外れて、残念でもありまたほっとしている。夏は山小屋に行ってしまえば下界はどんなに暑くても気にならない。だから夏は暑い方がいいのだが、実際は、山小屋に行く余裕はない。暑苦しい中で仕事をしなきゃいけないのが現実だ。それで、梅雨が長引き、冷夏になりそうという天気予報はひとまず歓迎である。ここのところ、雑務もあり、最後の授業があり、研究の方もありで、どうにかなりそうだ。

 雲南省の村へ入る件について、道路事情が悪く、近くの郷の宿舎から村に通うのは難しいという知らせが届いた。つまり、村で宿泊したほうがいいということだ。崖崩れが心配らしい。が、それなら、村に入ってしまうと抜け出せなくなる恐れがある。むしろ、そっちの方が心配だ。まだ雨季なので道路はたぶんひどいだろう。一応ジープで行くことになってはいるが、行って見ないとわからない。

 実際に近くの村に入ったE君に話を聞いたが、彼は、村に入るのに、途中から歩いて山を登ったそうで高山病に罹ったと言った。むろん彼は村に泊まり続けたわけだ。彼は若いからいいが、今の私にそんな元気はない。そんなに高い処でないので、高山病はないだろうと言ったら、その日は疲れていたのかも知れないと答えた。おいおい。まあ、大変なところなのは確からしい。

 学会のシンポジウム合宿が夏にありそこで発表ということになっているのだが、その要旨を送れというメールが届いた。とてもじゃないが今手が回らない。今週の座談会をどうにかクリアするのが先決だ。折口信夫の「情調論」を手がかりに、歌の意味と情調について考えるというテーマだ。

 「主体なき投企」という言葉が今日朝通勤途中に浮かんだ。情調の言葉はどうして他者に伝わるのか。存在を存在たらしめる無意識の意志のようなものを、実存主義的な言い方で「投企」というが、ある意味で「情調」も 投企だ。言い換えれば、意味の体系でなく、存在の姿勢のようなものにまで降りなければ、伝達する根拠を説明出来ない、ということだ。

 主体がないというのは、そこにはたぶん孤立がないからだと思う。実存主義的「投企」の代償は、未知に向かって身を投げだそうと佇む存在の孤立感である。家持の歌を読むと、鬱情はあるが、この孤立はない。たぶんに、われわれの抒情的な感性そのものにも孤立感などというものはない。

今「思ふどち」にひっかかっているのだが、この「思ふ」は「親しい」と訳されている。が、「思ふ子」とか「思ふ仲」は、慕っているという意味になる。「どち」は仲間なので「慕っている」というように訳せないからだろうが、しかし、その意味合いがないわけではないだろう。あらためて不思議な言葉だと感じる。「思ふ」はまさに「情調」の言葉だ。それにしても、この夏はどうなることやら。

       空蝉や言の葉もまた脱けたるや

渋谷が人気2007/07/27 01:18

 今日は演習と講義科目があるが、講義の方はテストである。仮面論をやっているので、仮面についてのかなり抽象的というか仮面とは何かといった類の問題を2問出した。持ち込み可なので、毎回のように配ったプリントを取っ替えひっかえしながら解答を書いていた。これで、とりあえずは前期の講義が終わったことになる。

 基礎ゼミナールは今度の月曜が最後で「グループワーキングレポート集」も完成。月曜に学生に配布して終わりとなる。このレポート集なかなか面白い。グループに分けて、神保町をテーマにして何でもいいから調べるようにという課題であったが、その一つに「神保町と皇居の地価と経済」のレポートをだした班があった。それによると、校舎の真ん前にそびえている高層マンションは、今中古で売りに出されているのが、九千万円だそうである。28階の部屋は3億するということだ。自分の住んでいる土地の地価と神保町の地価との比較もしてあって、そのあまりの違いに、自分たちがいかに地価の高いところで勉強しているのか、と驚いている。

 授業が休講になったら、その90分の間に、神保町から何処まで遊びに行けるか、というレポートをしたグループもある。原宿まで22分、往復の時間を入れても、60分は遊べると書いてあった。その他にもいろろい所要時間がレポートしてあって、最後にアンケートがあり、やはり渋谷が圧倒的に人気がある。

 教員には不評の基礎ゼミナールであったが、私のとこの学生はそこそこ楽しんだようだ。 
 昨日、Y氏が来校。雲南へ一緒に調査に行くメンバーである。村に入るのに、村に泊まるのか近くから通うのか、どのようにするのか対策を練る。道路が悪くて、村に入るのにかなり歩くようだと、やはり村で泊まるようかなあ、という話になったが、実は、その村の家とは、案内してくれる現地の研究者の実家らしい。

 おそらく、彼は実家へ案内し、そこへわれわれを連れて行くことで、実家が潤うことを期待しているのではないかということも推測した。これはよくあることである。泊まれば宿代も払うし、調査をすれば謝礼も払わなければならない。現金収入のない村にとっては貴重な臨時収入である。とすれば、いろいろなことを言ってわれわれを村に泊まるように誘導するだろう。それはそれで仕方がないか、ということになった。ただ、安全面や、帰りのことを考えて日程を早めに切り上げることなどを確認した。それから、もし農家に泊まるならシュラフが必要だ、ということにもなった。Y氏は一度中国の農家でダニに全身を食いつかれひどい目にあった経験がある。中国の山岳地帯のダニは半端ではない。対策を考えなくてはいけないだろう。とにかく、計画を練っているうちにこの調査はけっこう大変であることがだんだんとわかってきた。ほんとにどうなることやらである。

    片陰を捜しても捜してもない

惨憺たる一日2007/07/29 01:09

 今日の座談会は最悪であった。私はほとんど発言できず。話の場にうまく乗れなかった。というのも、F氏のハイテンションな言葉に、うまく対応できず考え込んでしまったからだ。座談会で考え込んだらもうだめである。今出ている岩波の「文学」の座談会ではそこそこ発言していて、まあうまくやっていると思うが、来年にでる古代特集の座談会での私は最悪ですので、そのつもりで。

 結局、文学史という前提に私自身うまく対応できていなかったことが原因。私の担当は家持だったが、文学史というよりは、家持のこだわる「情」の背景に的を絞って、8世紀の「情」の展開をあぶり出そうとしたが、それが8世紀固有の問題として展開できなかった。そうそうたるメンバーでしかも遠慮のない人達のなかでの座談会なので、自信なげな私が入り込む余地はなかったということか。もっと勉強して出直し、ということだ。

 抒情論にこのところこだわっていて、抒情とは何かということに何でも結びつけようとして、そういうのがよくなかったのかも知れない。が、落ち込んでいても仕方がない。夏のセミナーの発表の準備を明日から始める。セミナーが終わるとすぐ中国への調査があり、調査から帰ったら、9月には奈良の明日香での研究会での発表、そのあと、12月までに3本の論文を書かなきゃいけない。今年の前半も忙しかったが、後半もなかなかである。

 こういうように強制されて私は勉強する。今年は勉強の年だ。こんなに万葉の歌のことを考えた年はない。何とか「抒情論」をまとめたいものだ。

 座談会が終わってメンバーで食事をし、座談会の続きとなった。酒が少し入ったせいかこっちの方が面白い。家に帰ったら、韓国戦のサッカーをやっていた。PK戦で結局負ける。どうも惨憺たる一日であった。

       この世では旱あれば豪雨ある

チビが救い2007/07/31 01:16


 先週の座談会で敗北したので安倍首相の気持ちはわからないではない。私も調子が悪い。不幸は続くもので、今日、非常勤のE君と、テレビ制作会社の人と、文科長室で、中国の雲南での番組制作のことなど話したが、そのあと、E君と食事。ビールを飲んだのが良くなかった。疲れが溜まっているせいか、帰りの電車の中で貧血気味になり、気分が悪くなる。悪いことは重なるもので、東武東上線でまた人身事故。電車は混んで最悪。

 どうにか無事に川越までついた。奥さんに車で迎えに来てもらった。ところが、奥さんは夜慌てて車を発進したためか、隣の車のバンパーに車体をこすりつけ。うちの車のドアの部分がへこんで傷がついた。かなりの出費だろうなあ。唯一の慰めはチビである。チビは、ただ寝ているだけで、ときどきなにしてるの?って感じでこっちを見つめる。

 選挙は、予想通りだがこんなに差がつくとは思わなかった。この選挙の不幸は、本当は、安倍首相仲良しクラブの、現実を無視した空疎なネオコン的理念の敗北なのに、閣僚の失態によって敗北の原因がそっちにすり替わり、本当の敗北が隠されてしまったことだ。理想的な理念は必ず現実をゆがめる構造を持っている。そのジレンマを明確にし、どう耐えるのかその道筋を示すのが、政治や思想というものの本来のあり方だが、そういうジレンマなどを考えようともせずに、ナショナリズムという権威的な理念で威張ろうとするものたちの底の浅さをはからずも見せつけた選挙であったようにも思う。

 面白かったのは、東京都の選挙区で、自民党の現職保坂議員が、新人の丸山珠代に敗れてしまったことだ。この保坂さんは、選挙期間中丸山候補者をいかにも自分の陣営を荒らす迷惑な存在として冷たくあしらっていた。自分の事で手一杯で応援など出来ないとまで言っていた。私は、芥川龍之介の「蜘の糸」を思い出した。地獄に堕ちた男が、かつて蜘を助けたことで、蜘の糸に救われ、天国によじ登ろうとする。ところが、下から他の者も蜘の糸を登ってくる。その男は、天国に行くのは俺だけでお前等は来るな糸が切れてしまう、と叫ぶと、自分の上のことろで糸が切れ自分も地獄におちてしまうという話である。

 自民党のベテランが、同じ自民党の新人の若い女性にお前は来るな、といったようなものだ。たとえそう思っても、そう言ってはいけない。厳しいけど二人で頑張ろうくらいのことを言う度量がないことを暴露してしまった。丸山候補は選挙権がなく選挙権を行使していないという不祥事にもかかわらず当選できたのは、この保坂議員のエゴイズムに自民党員があきれたからだろう。誰だって人間の嫌な部分は見たくないものだ。

 今日で授業が終わり。基礎ゼミナールも、レポート集を配って終わった。それなりにみんな喜んでいた。学習計画を書いてこいと宿題を出したが、書式や何をどう書くのか、特に指示を出さなかったので、けっこう簡単でいい加減のが多い。これは失敗。来年は、書き直しをさせるくらいにしなくては。

何となく夕張メロンを見つめ居る