死と食の理論2007/07/02 00:07

 今日は供犠論研究会とNさんの科研の会合があり学習院大学へ行った。目白の駅を降りたら、小中学生とその保護者であろう集団で混雑していて、その群れは学習院大学の中まで続いていた。何事かと思ったが、何でも、日能研の模試があるとかで、大勢集まっているということだ。

 供犠論研究会は10年ほど前から続いていて、私は途中から参加した。その成果がやっと本になった。『狩猟と供犠の文化誌』(森話社刊)である。それと、科研の方の報告書も出たので、その合評会と打ち上げをかねての会合である。

 当初、私はこの研究会にはあまり乗り気ではなかった。というのも、自分の中で供犠というテーマをどう位置づけて良いのかよくわからなかったからだ。私は首狩りで知られた雲南省のワ族の発表だったが、この発表も最初はどういう風に論としてまとめていいか考えあぐねていた。

 ただ、この研究会で日本のあちこちを旅し、いろんな儀礼を見て歩き、また私自身、中国の少数民族文化の調査を続けていくうちに、だんだんと供犠という文化に興味を抱くようになった。供犠はある意味では消えていく文化ではあるが、社会的な現象としては決して消えない。人間の文化的行為としては、現代にでも様々な形で起き得る表象である。

 それは、人間と神との関係の問題であり、別な言い方をすれば、人間が人間として人間でないものの側から規定されるときの、その規定の条件の一つとしてしっかりと組み込まれているのが供犠なのだということである。供犠は犠牲とでも言うべきものだが、それは本来は神との媒介という意義を持つ。つまり、自分が神に近づくか、神をこちらに引き寄せる行為であり、その意味では、神を持たないものらにも、自分を絶対化するかあるいは自分を越えたなにものかに自分を委ねたいという願望を叶える行為でもある。

 主催者のNさんもそうだが、私も供犠が人間の食と深い関わりを持つことに関心を持った。というのも、供犠は、鳥、牛、羊、豚といった食用の家畜が対象であり、つまり、日常的な動物の死を、神への媒介という非日常への死に変えてしまうマジックなのである。今日の議論で、首狩りは他の家畜の儀礼とはやや違うのではないかという意見があった。

 確かにそうである。それは、首狩りが日常的な死を非日常へと変えるマジックを必要としないからだ。最初からその死が非日常なのである。そして、首狩りは食と関連しない。首狩りの多くの事例を集めた資料が報告書にあるのだが、それにも、首狩りとカニバリズムとの関連は指摘されていない。

 私の一つの興味は、この日常的な死と非日常としての死の隣接である。死は同じであるのに、その死を通して、人間は神との媒介という大きな精神の仕事をやってのける。さらには、その死を通して、様々な文化的意味を付加していく。例えば、神の食料であったり、祓えの意義であったり、というようにである。

 死と食とは、死と生であり、日常の光景ではあるが、人間にとって根源的である。つまり、日常と非日常がこれほど隣り合った表象はないのである。その隣り合い方は人間という存在と同じであるといってよい。人間の根拠もこの隣り合いにあると言っていいのではないか、ということだ。

 柳田国男は料理の発達は神へ捧げる料理から始まる、というように述べている(確か)。死は、日常そのものといえるがそれを受け止められないから非日常としての死を文化的に創造する。それが人間である。食は本来非日常だった。生きるとは、この非日常の食を日常の側に取り戻す行為ではないか。ふだんわれわれは意識しないが、明日の食の保証は本当は与えられていない。食が本来非日常というのはそういうことである。食を食べるときにお祈りをすることがそれをよくあらわしている。

 摂食障害も、ある意味では、この食の非日常性がもたらす現象だろう。非日常の食を日常の側に平然と取り戻すことは、ある者にとって軋みが生じる。日常の側にある食など本当は危うい幻想だと気付いたときに、逆に、その食を通して非日常に属しようとする考えも当然あり得る。そのあらわれが摂食障害と考えてもよいだろう。

    人形(ヒトガタ)や生きるも死ぬもひらひらと

類は類を呼ぶ?2007/07/03 00:14

 今日の基礎ゼミナールは、グループ討論というか、グルーブでテーマをたてていろいろと調べて、それをレポートでまとめるという作業であった。テーマは神保町にかかわるもので、みんなは情報室に行ってパソコンで検索したり、神保町を歩き回っていたようだ。けっこう楽しそうにやっていて、まあ何とかなりそうだ。

 ここのところ、学生の心の問題に関する相談が相次ぐ。昨日の科研の会合の後の打ち上げで、メンバーの一人が、勤め先の大学で、学生に困った相談を持ちかけられて悩んでいるという。その学生は、霊が見えるらしくて、教員の守護霊とか、他の学生の守護霊がよく見えてしまって、時には自分の守護霊と他の学生との守護霊との相性が悪い場合があるという。相談とは、ある学生の守護霊と自分の守護霊との折り合いが悪く、その人とはとても一緒にはいられない。ところが、その人は先生のゼミにはいっている。自分も先生のゼミに入りたい、でも、その人と一緒になるのは嫌だ、どうしたらいい、というものだそうである。

 教員の当人は悩んでいた。その学生にはゼミに入ってもらいたい。しかし、どう答えていいかわからないというのだ。何せ、霊の次元の話だから、説得が難しい。私は、教員としての立場なら、そういう理由であきらめるのはおかしいと学生に言うべきだと言った。その学生は社会にでても同じ事を経験するだろう。その度に人とのコミュニケーションを回避していたらまっとうな社会生活は送れなくなる。別に霊が見えなくても、世の中には嫌な奴はいくらでもいる。その嫌な奴と一緒に仕事をしなくてはならないのが社会というものなのだ。むろん、その学生がすでに病のレベルにあって、ストレスに耐え得ない状態であるのなら話は別だが、そういう場合は、教育の問題ではなく、カウンセラーか医者に相談するしかない。

 むろん、こう答えたからと言っても、悩んでいる教員は気が重いだけだ。実際に学生と付き合うことの気苦労は大変だと思う。私のところはまだ霊の次元での相談はないが、問題はいろいろある。やはり悩んでいる先生もいる。ところでその教員は民俗学者で異界とか供犠とかの研究をしている。だから霊の見える学生が寄ってくる、と思われる。実は私の演習にも、異界の好きな学生が集まる。類は類を呼ぶのか。このたとえはちょっと違うという気がするけど。

      七月や顔、顔、顔に元気あり

しようがない?2007/07/04 01:30

 しょうがないというのは、私もけっこう使う言葉である。久間防衛大臣はこの言葉で辞任したが、しょうがないではなく当然だろう。しょうがないは、あきらめの意味であるが、例えば自然災害でひどい目にあったときなどにしょうがないと使う。

 人力ではいかんともしがたい自然や神の威力を、運命として受容する時の言い方と言ってもよい。その意味では、久間大臣には、アメリカは自然や神の如く、どうしようもない存在であったということになる。この人は、余り考えてしゃべる人ではなさそうだから、普段の使い方がそのまま出てしまった、ということだろう。とすれば、この人は、原爆という出来事を自然災害のレベルで受容し、アメリカは神の如きどうしようもなくしょうがない相手だと言うことなのだろう。

 が、この「しょうがない」が、人間にたいして使われるとき、例えば、理不尽に相手に喧嘩を仕掛けられ一方的に殴られた場合などに、相手もイライラしていたのだろう、しょうがないとあきらめることがある。あるいは子どものいたずらなのだからしょうがいよ、というようなケースとか、相手の立場にたって理解を示し、こちらの痛みをやわらげようとする場合がある。これをやさしさと言っていいのか、弱さといっていいのか、どちらとも言えるだろうが、日本人にはよくあることである。

 今回の場合、久間大臣は、原爆を落としたアメリカに理解を示したということで猛反発にあった。確かにそうも受け取られるが、たぶん、原爆を落とされたことは、自然災害のように、どうあがいたってどうしようもないことだから、運命のように受けいれるしかない、ソ連に占領されないですんだという良いこともあったではないか、という意味での「しょうがない」ではなかったかと思う。相手に理解を示したというよりは、被害を受けた自分の側の気持ちの整理をどうつけるか、憎むことも批判することも出来ないのなら、こっちが運命として受けいれようじゃないか、とでも言う気持ちだったのだろう。

 しかし、こういう言い方というのは、被害を受けたもの同士が、お互いの心を思いやりながら、ごく内輪で言う言葉である。講演という場で、公的な立場のしかも防衛大臣が言うべき言葉ではない。その意味では、立場や言葉の持つ重さをわきまえないことを一度ならず何度も露呈したのだから、辞めるのは当然だろう。

 私は、こういう「しょうがない」という言葉そのものは、悪い言葉ではないと思っている。むろん、久間大臣は悪くなかったということではない。ただ、「しょうがない」と言う言葉がこれだけ脚光を浴びるのはめったにないことだから、この言葉の持つ奥深さについていろいろ議論があっていいと思う。

 この問題を思想的に論じるなら、日本の戦争責任を曖昧にすることで日本を西側に組み込もうとするアメリカの思惑と、戦争責任を回避したい日本の思惑との共犯意識が、原爆というアメリカにとっては罪の意識となるはずの行為を不問に付し、国家というレベルでそれについて議論することをタブーとしてしまった、ということに問題の焦点はある。

 そのように、アメリカのそして日本の戦争責任を曖昧にしてきたつけがこのような発言として現れたということも出来る。戦争責任論がもっと明確に冷静に為されていれば、原爆の被害を「しょうがない」と語る言い方は出てこなかったろうと思うのである。

      雷鳴や遠き戦争語る人

哲学的面談を行う2007/07/05 00:20

 読書室に本が入ってようやく読書室らしくなはなったが、ただまだ書架一個分も本はない。まだみすぼらしいという感じだ。まあ、そのうちだんだんと充実していって、壁一面に本が並べば少しは賑わうのではないかと思っている。ただこちらが思ったよりは、学生が本を借りにこない。なかなかこちらが思うとおりには動いてくれないものだ。

 今日は学生と面談。ちょっと心の中が人よりは複雑な学生だった。とても頭の良い学生で、よくしゃべるし、頭の回転もいい。ただ、自分で、自分は躁鬱で心の問題を抱えているというような事をすらすらとしゃべる。

 距離の取り方が難しかったが、次第に慣れてきた。私の特技は慣れると相手の事がわかったように振る舞うことが出来ること。実際にわかっているかどうかは別だが、わかるように振る舞うことはとても重要だ。何の根拠もない自信だが、秘訣は、自分も相手と同じ心を抱えているはずだと思い、その心を探してそのイメージを強く思うことだ。

 目の前の学生は、いろんな事情で苦しんでいて、自分はこの世界に居場所はないのではないかと反芻し続けながら生きているようだ。ただ偉いのは、閉じこもらずに、辛い辛いと言いながらそれでも学校に毎日で出て来ていて、何でこんな風に生きなきゃなんないのよ、とつぶやきながら生活を送っていることだ。生活するエネルギーのようなものは人よりは強い。だが、この強さがまた辛さを倍加している。

 とても頭がいいのはいつも自分と対話してきたからだろう。つまり、自分に対して意味を問い続けてきたのだと思う。小学生の時からこの世に絶望していたと語っていたから、その頃から生きる意味というかなり抽象的なテーマを自分と一緒に問い続け、そのように自分と対話することで、ある意味では今の環境に耐えうるタフな自分を作り上げてきたのだ。

 とても不安定な表情だったが、私にはとてもタフな学生に見えた。私が同じ立場だったらとてもそんな風にふるまって生きることに耐えられないだろう、と思った。

 最後に私は、目の前の学生に、生きることに意味なんてないんだよ、とあえて大胆に言ってみた。そう思っているからだ。でもそれに耐えられないからみんな意味を必死に探すんだ。うちの犬なんか、自分が生きることに意味なんて見出していない、でも楽しそうに生きているよ。こういう哲学的な語りが好きなのか、学生はけっこういろいろと反応してきた。

 言いたかったことは、自分に生きる意味をみいだそうと頑張ったって、生きること自体に意味がないんだったら(正確には意味が届かない領域だからわからない)、そんなことわからないに決まっているし、わからないんだったら、自分はもうだめだと決めつけることは出来ないはずだし、将来自分がどうなるかだってわかるはずはない。自分なんてわからないしそれ以上、他人のこともわからない、そう思った方がいいよ、ということだ。

 たぶん、辛い状況にある今の、そこに生きる自分の意味を徹底して問い続けることでその辛さを回避しようとするところがあり、だから、この娘は、話を聞いているとすでに哲学者のような宗教者のような話し方になっている。基本的に哲学や宗教は、辛さを回避する手段でもある。その意味では、この学生は大道を行っているとも言える。

 きっと今の頭の中のいろんなことを文章にしてあるいは別な表現手段で表現できるようになれば、すごい才能を発揮するのではないかと思わせた。その意味で、面談していてとても楽しかった。こういう学生とは、小説ではよく出会うが、現実ではあまり会ったことがない。というより話す機会がない。その意味では、この面談は私に久しぶりにいろいろと良い刺激を与えてくれた。

説明出来ないからこそ…2007/07/09 01:11


 忙しい週末も終わりを告げた。金曜は山に行き、土曜は学会のシンポジウムがあり勤め先へ往復。今日の午後に山から川越に帰ってきた。この数年林檎の樹のオーナーになっているのだが、その林檎の樹の選定をしに帰りがけにリンゴ園に寄った。

 去年は林檎の樹の選定を失敗し、小粒の林檎しか取れなかったので、今年は、良い樹を選ぼうとあれこれと見て回るのだが、今の時期は小さな実がたくさんなっているだけで、これが、豊かな実りになるのかどうかは秋になってみないとわからないである。花の時期に見ないとわからないという話も聞いたが、たくさん実の成っている大きな樹に名札つけて、一応秋の林檎の樹は確保した。うまく行けば「富士」が二百個は獲れる。

 先週奥さんが小淵沢のブティックで、ハート型のステンレスで出来たペーパーウェイトを買ってきていた。それを手に持って動かすと鐘の音がするのである。中に細工がしてあって鐘の音がするというわけだ。よく出来ている。私は即座にこれを、私の勤め先で、エッセイや読書レポートをたんさん書いた学生に出す副賞にしようと決めた。それで、20個買えるかどうか聞いてもらったら、在庫があるというので、さっそく注文した。一個千円で安いし、手作りで、何処にでも売っているというものでもない。

 今回の学会のシンポジウムは、万葉の文字表記や、和歌の掛詞を通して、ことばの遊びとも言えるイレギュラーな言葉の暴走とそれを修辞として取り込む和歌の意識、と言ったことが話題になった。シンポジウムの題目のテーマと実際の発表のテーマはあまり重ならなかったように思うが、このところ、和歌のことばについていろいろと考えている私としては面白いシンポジウムではあった。

 ある表現が、読み手によって意図した意味とは別の意味を読み取られることはよくあることであるが、その読みが一般的な了解を得ないような読みである場合、その読み自体は妄想の扱いを受ける。例えば、ノストラダムスの予言のような場合、ある文書の言葉を適当に抜き出して別の脈絡に沿って解読すると別の意味が浮かび上がるという手法だが、そういう読みはどんな表現でも可能である。

 一人はそのような妄想に近い読みが、万葉の文字表記に見いだせると発表した。それはそれで面白い指摘だが、問題はそれが書き手の意図したものとした場合、それをどう評価するかだ。ただの遊びなのか、それともノストラダムスの予言みたいなものなのか。発表者は、ただそういう読みを引き寄せる可能性がテキストには常に存在するということを言いたかったようだが、そのことを指摘することで何が見えてくるのか、実は、そこがよく見えなかった。

 発表者の最近の仕事からすると、そういう偶然、無意識、あるいは、言葉の勝手な連なりが生む逸脱、といったことに、霊性とでも呼ぶべき何らかの(神か?)表徴が現れる、という現象を受容するというか作り出す、そういう表現の文化があるということを述べたかったのだろうと思う。それが述べられなかったのは、それはノストラダムスの予言と同じことか、と言われたら返す言葉がないと思っているからだろう。

 発表者がこだわる面白さはよくわかる。ポストモダン以降の記号論は、ある意味で体系化されたテキストを解体し、そこに戯れや差異以外に何もないということを論じてきた。それは、体系の呪縛にとらわれた西欧言語学への反発であったが、同時に、それはもう一つの神学を作り上げただけだという批判は、以前に紹介した。

 発表者のT君の興味は、むしろ、そういう戯れや差異といったテキスト現象に、ある近代的な主体概念とは違う意味での「意志」のようなものを認めたいという欲求があるようであるが、今のところ、それを説明する言葉が見つかっていない。間違えば、ノストラダムスの予言と同じ事を言うに過ぎなくなる。そこの壁に突き当たっているのだろう。

 もう一人発表者は掛詞の論であったが、なかなか難しいテーマであると思う。というのは、掛詞を、意外な意味の組み合わせという視点と、その意味と意味との衝突の結果が、心物対応のような親和的な関係になるという、その和歌の独特のあり方が、まだうまく説明できていないからだ。

 意外な意味の組み合わせと言うが、枕詞でもわかるように、和歌は伝統的に意味の脈絡を持たない言葉のつながりを和歌の言葉として取り込むことで出発している。そこに歌というものの本質があると言ってもよいのだが、結局は、歌とは何かというところまでいかないと、この問題は説明出来ないだろう。

 私は、それは「現在性」というタームで説明出来るのではないかと思っている。むろん、私もどうやって説明しようか壁にぶち当たっている。上手く説明できないからこそ、それを説明したいという欲求にとらわれる。研究とはいつもそういう徒労の繰り返しの中にある、ということだ。

     樹も雲も超然として半夏生

評価は難しい…2007/07/10 01:10

 T君のブログに人を評価することの難しさが出ていたが、私は、その評価が出来ない人間である。理由は簡単で根っからの性善説だからである。だから、私に面接をやらせると、あまり落とそうという方向に頭が回らない。でも、誰かを落とさなければならないから、いつも本当に苦労する。

 特に回りからこの人はちょっとというような情報が入り、面接してみて何か感じが悪くないと、きっといいところがあるのではないか、という期待値で判断し、客観的な評価が鈍くなる。つまり、情が絡むのである。それでうまく行けばいいが、だいたいは後でそういう判断を後悔することになる。

 その意味では私は人を評価することは得意ではない。特に、その人の悪い部分の判断が苦手である。ただ、そういう私の判断力を私は一概にだめだとも思っていない。確かに、私には甘さがあるが、その甘さによって、私は人との良い関係を築いているという面もある。私の知っている範囲で、人の悪い部分を必要以上に見抜く才能を持っている人は、だいたいに人から敬遠されている人物が多い。間違いなく私より孤独な人である。

 私は人間関係をうまく調整していく能力には欠けるので組織の長には適していない。私の甘さは、人が抱えているだめな部分を許容するために、いらぬ人間関係のトラブルを生み出すことになろう。時には厳しさも必要なのだが、なかなかそういう厳しさを自分には向けても他人に向ける勇気を持っていない。

 だが、組織の長になる事がなければそんなに悪い性格でもないと思う。人はみんなだめな部分を抱えている。誰か性善説の人がそういう人のだめさを見ない振りでもしてあげなければ、その人はこの世に居場所がなくなってしまう。そういう役割を私は担っているのかも知れない。組織の長はまっぴらだが、ごく身近な関係の範囲では私はこれからも性善説で行く。ただ、今、組織の長とは言えないまでも上の方にいるので、辛いのだ。

     炎昼にみじんもなきや人の情

家持の孤独2007/07/12 01:14

 相変わらず会議の連続で、あっというまに一日が終わる。こんな風にして時間が経っていっていいのだろうかと反省するが、これもまた生活というものの姿なのだ。私の職業は人間相手の職業であって、忙しいということは、それだけ人との関わり合いが多くなるということである。むろん、不特定多数の人と付き合っているわけではないが、それでも、毎日、結構多くの人間と接するのは確かだ。

 あまり人と接するのが得意でない私が何故こんな職業を選んだのかは未だに私にとって運命のいたずらとしか思えないが、そこそこ続けているので、それなりには合っているところもあるのだろう。それなりの適応能力はあるということだ。

 今大伴家持の心の問題を考えているのだが、たぶん、やや自閉的で、優柔不断で、そこそこ真面目で、かなり貴重面であろう。そうでなければ、歌日誌をつけて、膨大な歌の蒐集も出来ない。私はずぼらなので似てはいないが、自閉的で優柔不断というのは似ている。

 家持論のほとんどが彼の孤独ぶりに言及する。確かに孤独と言われれば孤独な歌が多い。が、その孤独さは、神を失ってしまった近代的人間の孤独とは違う。おそらくは、官人 共同体に共通する心情だったのではないか。つまり、官人の情調の共同性とでも言うべきものがあって、家持はその共同性を最も敏感に所有していた、ということではないか。

 越中での「思ふどち」の世界とは、そういった官人の情調の共同性の、発露の場であった。そう思う。それは、父旅人の太宰府での官人たちの共同性とはまた違ったものではないか。都へ戻ってそしてまた地方へと帰ってきた官人を迎える越中の宴の雰囲気は、明らかに慰め合いである。家持の孤独とは、この官人の情調の共同性の一つの表情ではなかったかと思う。最近そんなことを考えている。

     うすものを透かして見るこころかな

会議か寄り合いか2007/07/13 00:52

 今週は会議が多くて忙しかった。何でこんなに会議が多いのだ。日本は会議文化だと言われているが、確かに、会議が好きな民族なのは確かだ。宮本常一の『忘れられた日本人』の中に、対馬の寄り合いの話がある。

 宮本常一がある村の長老に古文書を見せてくれないかと頼むと、村の寄り合いにはかると答える。丁度寄り合いが開かれていて、そこへ長老と一緒に頼みに行く。寄り合いはそれから三日間開かれたがいっこう結論が出ない。業をにやしてのぞきに行くと、寄り合いに集まってきた村の連中は、古文書の話はするが、それにまつわる思い出話などに話題が逸れて雑談ばかりしている。

 宮本常一は次の予定があるので何とかならないかと長老に頼むと、長老は、村の人達に、この人は悪い人でもなさそうだし、みんなどうだろうか貸してやってもいいだろうか、と語ると、みんなは長老が言うのだったらそれでいいのでは、ということで話は決まった。いったい三日間も話し合っていた寄り合いとはなんだったのか、というエピソードである。

 かつて小論文を教えていたとき、この文章は早稲田の小論文に出たので、授業でよく話題にした。この村の寄り合いは、一種の祭りであって、会議が晴の儀礼になっている、というような事を説明したように思う。つまり祭りだから、村人の絆を確かめたり、非日常の時間を作り出すことに主たる目的はあり、古文書を貸すかどうかという論題は、主たる目的ではないのだ。ある程度満足するまで寄り合いが続けば、長老の顔をたてて一任ということで終わってしまう。

 わが大学の会議はさすがにここまで、日本の伝統にどっぷりではない。厳しい経営環境では、とてもじゃないが、非日常を楽しむ余裕なんてのはない。昔は、会議の後によく飲みに行ったが、最近は、次の日も会議だからと早く帰る。

 むろん、あれこれ言いたいことを言い合って何も決まらず、誰かに一任という形で終わる会議もある。伝統を感じる時もある。徒労と思うときもあるが、実は、そういうときは、さしせまった危機がないときである。危機的なときは、そうはいかない。

 最近の会議が疲れるのは、私の職場自体が安閑としてはいられない環境だからだろう。そう考えると、宮本常一が苛立った村の寄り合いが、うらやましいように思うのである。

      白き皿冷やしトマトに塩を振る

初山2007/07/14 01:51

 今日は私の家のすぐ近く、富士浅間神社の初山である。初山とは赤ちゃんの無病息災を願って浅間神社に詣で朱印を額に押してもらう祭である。川越の私の家の近くには、国道16号を挟んでこの富士浅間神社と、氷川神社、愛宕神社がある。富士浅間神社は小さな丘の上に立っているが、この丘は古墳跡らしく鹿の骨が出てきた。そこで、東歌の3374の歌、

 武蔵野に占へ象焼(かたや)き現実(まさて)にも告らぬ君が名占に出にけり

の歌碑がこの境内に建てられている。この占とは鹿占のことで、鹿の肩の骨に焼いた鉄の棒で穴を開け、その穴の開き具合で占う。弥生時代の遺跡からこの鹿占に使われた骨が出土していて、現在でも神社などで行われている占いである。群馬県富岡の一之宮貫前神社ではこの鹿占を今も行っている。むろん、万葉の時代も行っていて、この歌は、娘が母親に問い詰められても自分の恋人の名を言わないので、母親は鹿占でその男の名前を突き止めてしまった、という意味。

 この歌は武蔵野ならどこにでも当てはまるので、この浅間神社に歌碑が建てられる理由は無いのだが、鹿の骨が出てきたというので関連づけられたのだろう。万葉歌碑はあちこちに建っているが、その建てられている土地との関連はいい加減な物が多い。

 いつも、浅間神社の初山が始まると、私の通勤路でもある路地は露店だらけになる。結構な人手で休日に重なると身動きが出来ないくらいになる。今日は平日なのと天気も雨模様なので昼間の人出はそんなに多くはなかったが、夕方になると賑やかになるだろう。小さな祭だが、昔の村の祭りを彷彿とさせる。私はこの祭がけっこう好きである。

 今日は午後、癌で闘病中の友人をつれて山小屋に行く予定でいたが、友人の体調が思わしくないというので、友人を連れて行くのは後日ということになった。奥さんの友達二人と待ち合わせて、夕方、山小屋に向かう。川越インターを6時30分頃に入り、圏央道で中央高速に出る。談合坂で夕食を食べ、諏訪南で降りて、山小屋に着いたのが9時半。このルートは高速料金(5050円)は高いが、やはり時間がかからない。

 夜遅く教え子の夫婦が子どもを連れて来る。これで山小屋は、大人6人と2歳の子どもと犬一匹になった。天気が良ければ、連休は霧ヶ峰の湿原を散策の予定だが、たぶん台風でほとんど雨だろう。それもよしだ。私は、今日は、8世紀の歴史の勉強。講談社の「日本の歴史」の「平城京と木簡の世紀」を読む。ほぼ読了。新しい発見はないが、頭の中で8世紀を整理するには役だった。

高原で8世紀の勉強2007/07/15 22:57


 台風の影響でさすがに山の天気は荒れているが、心配したほどではない。霧ヶ峰高原はちょうどニッコウキスゲが咲き始めたころなので、雨の中を出かけた。霧ヶ峰高原のコロボックル付近の高原を散策し、それから、八子峰高原の方にも足をのばした。

 ニッコウキスゲ一面に咲いているというわけではないが、だいぶ咲き始めている。八子峰のほうは、何種類かの高山植物が咲いていた。

 教え子が連れてきた2歳の子は、うちのチビが好きで近寄っては撫でようとする。チビは逃げるのだが時に観念して固まってしまい好きなようにさせている。耳とか尻尾とか言いながらさわっているので、絵本で覚えた名前を確認してるのだろう。生きた教材になっているというわけだ。

 私の方は、暇を見ては八世紀の歴史の勉強である。テーマは八世紀の官人の世界を知ること。官人が国家の官僚機構を担う存在として登場するためには、官僚機構そのものが確固としたものとして成立していなければならない。八世紀の律令国家はどの程度の官僚機構を作り上げたのか。

 わかったことは、八世紀の律令制度はかつて言われているほどには衰退していたわけではなく、それなりに財源は確保しており、政治的な混乱の割には安定した制度であったということだ。たとえば藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱(764年)では、孝謙が仲麻呂の機制を制して、淳仁天皇から、鈴印を奪ってしまう。仲麻呂は、畿内の軍事権を掌握し淳仁天皇を味方につけていて、しかも、かなりの権勢を誇っているのだから、本来なら負ける訳がないのだが、天皇の公的な文書に押される鈴印がないことによって、一挙に不利な立場に立たされる。というのは、すでに律令制に組み込まれた軍隊は天皇の公式文書による命令によってしか動かない仕組みになっていたからである。結局、鈴印による公的な文書は仲麻呂と敵対した孝謙によって出され、仲麻呂は謀反人として追われることになるのである。

 八世紀中頃の政治は、先進的な中国の制度を取り入れ、改革による天皇を中心とした中央集権化を目指す派と、律令制を受け入れつつも急激な改革を嫌い、律令以前の大王と豪族や貴族による合議制的な政権運営を懐かしむ守旧派との権力争いが続く。両派が交替で政権を握る激しい権力闘争のため、この権力闘争を無事に生き延びた高位の貴族は少ない。家持も生き延びた一人である。

 大事なのはそれでも律令制度そのものは安定していたということである。つまり官僚機構が整い、権力闘争はその官僚機構の長をめぐる争いであって、官僚機構を担った官人たちは、その政局に巻き込まれるということはなかったということである。

 つまり、官人達は政治から相対的に自立したシステムの一部として生きていたのであり、いわば官僚機構という抽象的な空間を生きていたことになる。多くの官人は、本貫の地を離れ都に住むことを余儀なくされたものたちでもある。そして、都をふるさととして、地方に赴任していく。そのように考えていくと、地縁、血縁を保証する土地や自然(神)との結びつきを失って、制度や都という人為的な空間に帰属しなければならない官人の心の世界が少しは推し量れようというものだ。

 そういった官人の情調の共同性を基盤に万葉集という歌集が成立した。家持はそういった官人の情調に表現の価値を見出したのだと私は思っている。

    夏雲や子どもはやおら一人立つ