説明出来ないからこそ…2007/07/09 01:11


 忙しい週末も終わりを告げた。金曜は山に行き、土曜は学会のシンポジウムがあり勤め先へ往復。今日の午後に山から川越に帰ってきた。この数年林檎の樹のオーナーになっているのだが、その林檎の樹の選定をしに帰りがけにリンゴ園に寄った。

 去年は林檎の樹の選定を失敗し、小粒の林檎しか取れなかったので、今年は、良い樹を選ぼうとあれこれと見て回るのだが、今の時期は小さな実がたくさんなっているだけで、これが、豊かな実りになるのかどうかは秋になってみないとわからないである。花の時期に見ないとわからないという話も聞いたが、たくさん実の成っている大きな樹に名札つけて、一応秋の林檎の樹は確保した。うまく行けば「富士」が二百個は獲れる。

 先週奥さんが小淵沢のブティックで、ハート型のステンレスで出来たペーパーウェイトを買ってきていた。それを手に持って動かすと鐘の音がするのである。中に細工がしてあって鐘の音がするというわけだ。よく出来ている。私は即座にこれを、私の勤め先で、エッセイや読書レポートをたんさん書いた学生に出す副賞にしようと決めた。それで、20個買えるかどうか聞いてもらったら、在庫があるというので、さっそく注文した。一個千円で安いし、手作りで、何処にでも売っているというものでもない。

 今回の学会のシンポジウムは、万葉の文字表記や、和歌の掛詞を通して、ことばの遊びとも言えるイレギュラーな言葉の暴走とそれを修辞として取り込む和歌の意識、と言ったことが話題になった。シンポジウムの題目のテーマと実際の発表のテーマはあまり重ならなかったように思うが、このところ、和歌のことばについていろいろと考えている私としては面白いシンポジウムではあった。

 ある表現が、読み手によって意図した意味とは別の意味を読み取られることはよくあることであるが、その読みが一般的な了解を得ないような読みである場合、その読み自体は妄想の扱いを受ける。例えば、ノストラダムスの予言のような場合、ある文書の言葉を適当に抜き出して別の脈絡に沿って解読すると別の意味が浮かび上がるという手法だが、そういう読みはどんな表現でも可能である。

 一人はそのような妄想に近い読みが、万葉の文字表記に見いだせると発表した。それはそれで面白い指摘だが、問題はそれが書き手の意図したものとした場合、それをどう評価するかだ。ただの遊びなのか、それともノストラダムスの予言みたいなものなのか。発表者は、ただそういう読みを引き寄せる可能性がテキストには常に存在するということを言いたかったようだが、そのことを指摘することで何が見えてくるのか、実は、そこがよく見えなかった。

 発表者の最近の仕事からすると、そういう偶然、無意識、あるいは、言葉の勝手な連なりが生む逸脱、といったことに、霊性とでも呼ぶべき何らかの(神か?)表徴が現れる、という現象を受容するというか作り出す、そういう表現の文化があるということを述べたかったのだろうと思う。それが述べられなかったのは、それはノストラダムスの予言と同じことか、と言われたら返す言葉がないと思っているからだろう。

 発表者がこだわる面白さはよくわかる。ポストモダン以降の記号論は、ある意味で体系化されたテキストを解体し、そこに戯れや差異以外に何もないということを論じてきた。それは、体系の呪縛にとらわれた西欧言語学への反発であったが、同時に、それはもう一つの神学を作り上げただけだという批判は、以前に紹介した。

 発表者のT君の興味は、むしろ、そういう戯れや差異といったテキスト現象に、ある近代的な主体概念とは違う意味での「意志」のようなものを認めたいという欲求があるようであるが、今のところ、それを説明する言葉が見つかっていない。間違えば、ノストラダムスの予言と同じ事を言うに過ぎなくなる。そこの壁に突き当たっているのだろう。

 もう一人発表者は掛詞の論であったが、なかなか難しいテーマであると思う。というのは、掛詞を、意外な意味の組み合わせという視点と、その意味と意味との衝突の結果が、心物対応のような親和的な関係になるという、その和歌の独特のあり方が、まだうまく説明できていないからだ。

 意外な意味の組み合わせと言うが、枕詞でもわかるように、和歌は伝統的に意味の脈絡を持たない言葉のつながりを和歌の言葉として取り込むことで出発している。そこに歌というものの本質があると言ってもよいのだが、結局は、歌とは何かというところまでいかないと、この問題は説明出来ないだろう。

 私は、それは「現在性」というタームで説明出来るのではないかと思っている。むろん、私もどうやって説明しようか壁にぶち当たっている。上手く説明できないからこそ、それを説明したいという欲求にとらわれる。研究とはいつもそういう徒労の繰り返しの中にある、ということだ。

     樹も雲も超然として半夏生