「男色大鑑」2007/07/21 00:47

 今日は久しぶりに家で一日勉強。昨日までは毎日会議で夜も遅く大変だった。来年のカリキュラムのことや、編入の選考、千字エッセイコンテストの審査など、いろいろあった。千字エッセイの審査は12名の入賞者。学長賞は見送り。なかなか審査員全員がこれだというのがなかったので学長賞は出なかった。だいたいの作品の評が割れる。

 審査する教員好みというか基準の仕方が違うからだが、ある意味では、いろんな見方があっていいので、それでいい。 文章のうまさを見ようとする人、感動するかしないかに力点を置く人といろいろいろである。私はどちらかというと感動の方に力点を置くが、ただ、感動を伝える内容は、題材が正否を決めるので、ほんとうに感動的な体験があるとそれだけ得である。だが、逆に、あざとくなるというリスクもある。

 千字で人を感動させるのは結構な技が必要である。が、中にはその技だけで書こうとするものがいる。ある意味で手慣れている。こう書けば感動するだろうという計算が無意識に働く。そういうのをあざといという。

 私は素直な文章が好きだが、中には嫌いな教員もいる。むろん、素直なのは明るいと言う意味ではない。暗い素直さもある。が、文章には、客観的であることや、物事を相対化したり批判したりするまなざしも必要だ。そういう文章には感動はない、ただ感心するだけだ。千字で感心させるのはなかなか難しい。だからどうしても感動派が賞を多く獲るということになる。それはそれで仕方がないと思う。

 学部への編入学特別推薦の面談を昨日行う。試験無しで編入できる制度だが、成績優秀者でないと推薦はできないことになっている。面接は、志望動機や、どんなことを研究したいのかなどと聞くのだが、一人の学生が、江戸時代の武士の男色について研究したいと言った。さすがに、なんでまた、と聞き返した。

 要するにある教員の影響で、井原西鶴の「男色大鑑」の講義を受けて興味を持ったらしい。特に武士と死の問題を男色の世界で考えたいということだった。それにしても、二十歳の女子大生が「男色大鑑」を面白いと思うとは。いやたいしたものだ。教員の影響というものを改めて思う。

 明日は奈良の橿原神宮、万葉ミュージアムで会議。京都に泊まって、次の日に東京入谷で万葉集のささやかな講演。テーマは歌垣でやろうと思っている。相変わらず忙しい。

    冷や麦や静かな午後に出されけり