哲学的面談を行う2007/07/05 00:20

 読書室に本が入ってようやく読書室らしくなはなったが、ただまだ書架一個分も本はない。まだみすぼらしいという感じだ。まあ、そのうちだんだんと充実していって、壁一面に本が並べば少しは賑わうのではないかと思っている。ただこちらが思ったよりは、学生が本を借りにこない。なかなかこちらが思うとおりには動いてくれないものだ。

 今日は学生と面談。ちょっと心の中が人よりは複雑な学生だった。とても頭の良い学生で、よくしゃべるし、頭の回転もいい。ただ、自分で、自分は躁鬱で心の問題を抱えているというような事をすらすらとしゃべる。

 距離の取り方が難しかったが、次第に慣れてきた。私の特技は慣れると相手の事がわかったように振る舞うことが出来ること。実際にわかっているかどうかは別だが、わかるように振る舞うことはとても重要だ。何の根拠もない自信だが、秘訣は、自分も相手と同じ心を抱えているはずだと思い、その心を探してそのイメージを強く思うことだ。

 目の前の学生は、いろんな事情で苦しんでいて、自分はこの世界に居場所はないのではないかと反芻し続けながら生きているようだ。ただ偉いのは、閉じこもらずに、辛い辛いと言いながらそれでも学校に毎日で出て来ていて、何でこんな風に生きなきゃなんないのよ、とつぶやきながら生活を送っていることだ。生活するエネルギーのようなものは人よりは強い。だが、この強さがまた辛さを倍加している。

 とても頭がいいのはいつも自分と対話してきたからだろう。つまり、自分に対して意味を問い続けてきたのだと思う。小学生の時からこの世に絶望していたと語っていたから、その頃から生きる意味というかなり抽象的なテーマを自分と一緒に問い続け、そのように自分と対話することで、ある意味では今の環境に耐えうるタフな自分を作り上げてきたのだ。

 とても不安定な表情だったが、私にはとてもタフな学生に見えた。私が同じ立場だったらとてもそんな風にふるまって生きることに耐えられないだろう、と思った。

 最後に私は、目の前の学生に、生きることに意味なんてないんだよ、とあえて大胆に言ってみた。そう思っているからだ。でもそれに耐えられないからみんな意味を必死に探すんだ。うちの犬なんか、自分が生きることに意味なんて見出していない、でも楽しそうに生きているよ。こういう哲学的な語りが好きなのか、学生はけっこういろいろと反応してきた。

 言いたかったことは、自分に生きる意味をみいだそうと頑張ったって、生きること自体に意味がないんだったら(正確には意味が届かない領域だからわからない)、そんなことわからないに決まっているし、わからないんだったら、自分はもうだめだと決めつけることは出来ないはずだし、将来自分がどうなるかだってわかるはずはない。自分なんてわからないしそれ以上、他人のこともわからない、そう思った方がいいよ、ということだ。

 たぶん、辛い状況にある今の、そこに生きる自分の意味を徹底して問い続けることでその辛さを回避しようとするところがあり、だから、この娘は、話を聞いているとすでに哲学者のような宗教者のような話し方になっている。基本的に哲学や宗教は、辛さを回避する手段でもある。その意味では、この学生は大道を行っているとも言える。

 きっと今の頭の中のいろんなことを文章にしてあるいは別な表現手段で表現できるようになれば、すごい才能を発揮するのではないかと思わせた。その意味で、面談していてとても楽しかった。こういう学生とは、小説ではよく出会うが、現実ではあまり会ったことがない。というより話す機会がない。その意味では、この面談は私に久しぶりにいろいろと良い刺激を与えてくれた。