思ふどちに悩む2007/07/25 00:51

 猛暑の夏という天気予報が外れて、残念でもありまたほっとしている。夏は山小屋に行ってしまえば下界はどんなに暑くても気にならない。だから夏は暑い方がいいのだが、実際は、山小屋に行く余裕はない。暑苦しい中で仕事をしなきゃいけないのが現実だ。それで、梅雨が長引き、冷夏になりそうという天気予報はひとまず歓迎である。ここのところ、雑務もあり、最後の授業があり、研究の方もありで、どうにかなりそうだ。

 雲南省の村へ入る件について、道路事情が悪く、近くの郷の宿舎から村に通うのは難しいという知らせが届いた。つまり、村で宿泊したほうがいいということだ。崖崩れが心配らしい。が、それなら、村に入ってしまうと抜け出せなくなる恐れがある。むしろ、そっちの方が心配だ。まだ雨季なので道路はたぶんひどいだろう。一応ジープで行くことになってはいるが、行って見ないとわからない。

 実際に近くの村に入ったE君に話を聞いたが、彼は、村に入るのに、途中から歩いて山を登ったそうで高山病に罹ったと言った。むろん彼は村に泊まり続けたわけだ。彼は若いからいいが、今の私にそんな元気はない。そんなに高い処でないので、高山病はないだろうと言ったら、その日は疲れていたのかも知れないと答えた。おいおい。まあ、大変なところなのは確からしい。

 学会のシンポジウム合宿が夏にありそこで発表ということになっているのだが、その要旨を送れというメールが届いた。とてもじゃないが今手が回らない。今週の座談会をどうにかクリアするのが先決だ。折口信夫の「情調論」を手がかりに、歌の意味と情調について考えるというテーマだ。

 「主体なき投企」という言葉が今日朝通勤途中に浮かんだ。情調の言葉はどうして他者に伝わるのか。存在を存在たらしめる無意識の意志のようなものを、実存主義的な言い方で「投企」というが、ある意味で「情調」も 投企だ。言い換えれば、意味の体系でなく、存在の姿勢のようなものにまで降りなければ、伝達する根拠を説明出来ない、ということだ。

 主体がないというのは、そこにはたぶん孤立がないからだと思う。実存主義的「投企」の代償は、未知に向かって身を投げだそうと佇む存在の孤立感である。家持の歌を読むと、鬱情はあるが、この孤立はない。たぶんに、われわれの抒情的な感性そのものにも孤立感などというものはない。

今「思ふどち」にひっかかっているのだが、この「思ふ」は「親しい」と訳されている。が、「思ふ子」とか「思ふ仲」は、慕っているという意味になる。「どち」は仲間なので「慕っている」というように訳せないからだろうが、しかし、その意味合いがないわけではないだろう。あらためて不思議な言葉だと感じる。「思ふ」はまさに「情調」の言葉だ。それにしても、この夏はどうなることやら。

       空蝉や言の葉もまた脱けたるや

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