会議か寄り合いか2007/07/13 00:52

 今週は会議が多くて忙しかった。何でこんなに会議が多いのだ。日本は会議文化だと言われているが、確かに、会議が好きな民族なのは確かだ。宮本常一の『忘れられた日本人』の中に、対馬の寄り合いの話がある。

 宮本常一がある村の長老に古文書を見せてくれないかと頼むと、村の寄り合いにはかると答える。丁度寄り合いが開かれていて、そこへ長老と一緒に頼みに行く。寄り合いはそれから三日間開かれたがいっこう結論が出ない。業をにやしてのぞきに行くと、寄り合いに集まってきた村の連中は、古文書の話はするが、それにまつわる思い出話などに話題が逸れて雑談ばかりしている。

 宮本常一は次の予定があるので何とかならないかと長老に頼むと、長老は、村の人達に、この人は悪い人でもなさそうだし、みんなどうだろうか貸してやってもいいだろうか、と語ると、みんなは長老が言うのだったらそれでいいのでは、ということで話は決まった。いったい三日間も話し合っていた寄り合いとはなんだったのか、というエピソードである。

 かつて小論文を教えていたとき、この文章は早稲田の小論文に出たので、授業でよく話題にした。この村の寄り合いは、一種の祭りであって、会議が晴の儀礼になっている、というような事を説明したように思う。つまり祭りだから、村人の絆を確かめたり、非日常の時間を作り出すことに主たる目的はあり、古文書を貸すかどうかという論題は、主たる目的ではないのだ。ある程度満足するまで寄り合いが続けば、長老の顔をたてて一任ということで終わってしまう。

 わが大学の会議はさすがにここまで、日本の伝統にどっぷりではない。厳しい経営環境では、とてもじゃないが、非日常を楽しむ余裕なんてのはない。昔は、会議の後によく飲みに行ったが、最近は、次の日も会議だからと早く帰る。

 むろん、あれこれ言いたいことを言い合って何も決まらず、誰かに一任という形で終わる会議もある。伝統を感じる時もある。徒労と思うときもあるが、実は、そういうときは、さしせまった危機がないときである。危機的なときは、そうはいかない。

 最近の会議が疲れるのは、私の職場自体が安閑としてはいられない環境だからだろう。そう考えると、宮本常一が苛立った村の寄り合いが、うらやましいように思うのである。

      白き皿冷やしトマトに塩を振る