雷の影響が…2007/06/01 23:49

 木曜の夜に山に来る。今日(金)はこっちで仕事。ところが、山に着いたら大変。昨日の雷の影響で、給湯器が壊れている。電話が不通になっている。パソコンの方は何とか無事だったが、FAXは壊れた。

 業者に来てみてもらったところ、給湯器は、ヒューズが飛んでしまったことが原因と判明。これはヒューズを買ってきて直した。FAXはもうだめだろう。それから、ADSLと電話回線を分岐しているモデムも雷の影響で壊れていることが分かった。ADSLは使えるが、電話回線が使えない。

 そこで、壁にある電話回線のターミナルを細工し、回線を二つに分岐し(もともと二つに分岐してあったがADSLにしたときに一つの回線にしておいたのを元に戻しただけ)、ひとつをモデムに、もうひとつを、昔のシンプルな何の機能もついていない電話機を探し出してそれにつないだ。そうしたら、電話もつながり、分岐によってADSLが使えるかどうか心配だったが、こちらも使えるとわかり、何とかトラブルは解決した。ただ、モデムは交換しないといけない。FAXは古いものだからあきらめるしかない。

 別荘地の他の家でも大変だったらしい。停電があり、パソコンが壊れたり、冷蔵庫が壊れたという家もあったそうだ。

 今日はいい天気である。ようやく新緑が山を覆うようになってきた。このあたりは今が一番いい季節だろう。若葉には虫がいるので、野鳥はもうベランダにはこない。ただ、リスが時々ベランダの野鳥用のひまわりの種を食べに来る。たぶんいつも来るリスである。この家にちょっとはなじんだのかも知れない。リスが来ると、チビが家の中からきゃんきゃん吠える。この犬もようやく家犬らしくなってきた。ちょっとうるさいけど。

明日は出校。仕事というより、古代の学会のシンポジウムが私の勤め先で行われる。いつものことだが、準備をしなくてはなからない。長野から出勤ということになる。
 
         森の青葉八分ほどを覆いけり

歌の議論で盛り上がる2007/06/03 02:15

 古代の学会シンポジウムで、ひさしぶりにKさんと会う。元気そうである。今日のテーマは「言葉と性」。Kさんの「手枕くら」の歌についての発表はなかなか面白かった。特に、万葉の女の歌が、かなり官能的な表現であり、それが突出していることは確かにそうである。

個人的にはそれが何故か、ということに興味が引かれた。それは女性の歌であるということにもかかわるだろうが、表現の論理として何故か、ということが問われるだろう。単純に性差に還元できないとも思える。

 私は、官能的な「手枕くら」の歌の表現は、結局は、相手の不在を前提にすることで初めて成立すると考えている。そうでなければ官能的に歌う理由がない。それ以上官能的だとポルノになって危ないという規範があるときには、官能的に表現する理由がある。が、万葉の歌でそれがあるとは思われない。むしろ、万葉の表現にほとんど官能的な表現がないのは何故か、という論理を見つけることが大事だろう。

 恥ずかしいというのは当然あるだろう。少数民族の歌垣などでは、性的な比喩はたくさん出てくるが、官能的な表現が歌われることはない。理由は、相手が目の前にいるので恥ずかしいからだ。目の前の異性に「おまえと寝たい」と呼びかけることは恥ずかしくはないが、共寝の快楽を表現することは恥ずかしい。それは、当然恋の禁忌性ともかかわるだろう。「恥」は内なる姿を外から見られる時の反応であるから、官能的表現じたいは、さらされてはならないものをさらしている意識だということができる。

 一方、官能的というのは、共寝それ自体の快楽を想像的に生起する表現であるから、それは「飽くことのない」充足性である。本来恋歌とは、ほとんどが充足していない今の状態をうたうものである。とすれば、恋歌で充足性そのものを歌う必然性はないということにもなる。

 つまり、万葉の歌に官能的な表現がないのはそれなりに理由があるということだが、それなのに、女の「手枕くら」の歌に何故官能的な表現が、明らかに他の歌とは違うように現れたのか。

 結局、充足していない(相手は必ず不在になる)、という今の状況を「充足している」共寝の快楽のイメージを喚起させることで逆に強調するということではないか。が、そうであるなら、こういう歌の表現はもっとたくさんあっていいように思える。何故、希なのか。よくわからない。

 案外、万葉集を、意識的にこのような官能的な表現があるかどうかと見ていくとそれほど希では無いのかもしれない。独り寝という状況を分かり易く歌う多くの「手枕くら」の歌は、ある意味では「独り寝の悲しみ」に予定調和的に支配されている。が、官能的な表現が入ると、その予定調和が崩される。だから、そういう歌は少ないのだということかも知れない。が、だから、面白い歌であるのだ。

 もう一人の発表は、官人の恋は歌においては隠蔽されている。実は、それゆえに、家郷の妻との相聞が発達するのであり、家郷との妻との恋歌のやりとりは、結果的に王権を保証する制度的なものである。、というもので、この論理自体はなるほどとおもうが、疑問もないわけではない。

 問題は、この論の前提に制度に制約されない恋歌があるのだという前提が立てられていることだ。万葉はそれを隠蔽しているという論理だが、そんな恋歌などあるのだろうか。いったい恋歌とは何なのか。万葉の歌人が恋歌を歌う必然性とは何なのか。この発表はそこが曖昧。歌垣的な恋愛をそのまま想定しているのだろうが、万葉の恋歌は歌垣とは違う。

 発表では、官人も(異性愛としての)恋をするが、それが万葉に恋歌らしい恋歌として現れないのは制度として隠蔽されているからだ、だから、交友の交わりのようなホモソーシャル的文人同士の愛が成立する、という論理になるが、それなら、隠蔽されない恋歌とはどういうものなのか、本当にそんなものがあるのか、それが語られない以上、歌の問題としては不満が残った。

 毎月のことだが、このシンポジウムはけっこう面白いと思う。シンポジウムが終わって、神保町のビヤホールで歓談。また歌の論議で盛り上がった。   

       六月の歌の議論やビヤホール

エントリーシート2007/06/05 01:10

 少々疲れ気味。さすがに通勤途中の読書が出来なくなった。今週もいろいろあって忙しそうだ。今日の基礎ゼミナールでは、就職進路課で就職ガイダンスの説明のあと、先週書いてもらったエントリーシートを返した。

 それぞれにコメントをつけて返したが、さすがに一人一人見ていくのは大変だった。文章表現の授業の先生方は大変だろうなあと思う。予備校で小論文を教えていたときは、添削は専門の人がやっていたので、そんなに辛くはなかったが、いろいろ雑務があると授業の準備は大変になる。

 短大生は入学してから一年も経たないうちから就職活動に入る。こっちも大変である。エントリーシートは、就職への第一関門。これをクリアしないとエントリーしてくれない。エントリーシートも文章である。文章というのは、まとめ(抽象性)と具体性によって成り立つ。まずはその説明から。

 たくさん書いた人と短く書いた人がいる。その長さの違いは、まとめだけ書いた人と、具体的な例を示しながら書いた人との違いである。つまり、文章の長さというのは、具体性の長さなのである。まとめ、つまり要点は誰が書いても同じであって、短い。どっちが有利か。むろん、字数の制限がなければ、ある程度長く書いた方が有利だ。何故なら、具体性の側に、書き手の個性や切実な気持ちが表れるからだ。要点だけなら、要領のよさや頭は悪くないという程度のアピールでしかない。

 企業が見ようとしてるのは、動機の強さであり、仕事への理解や意欲であって、それは具体性の側によって伝えられるものなのである。だから、個人的な体験などの例をあげて何故その職業を選んだのかとうまく関連づけられれば、その文章は説得力がでる。とすれば文章は長くなる。文章が長くなるのはそれなりの必然があるのである。

 ただ、自分の思いだけを書いただけでもいけない。自分の動機の部分の具体性を職業や企業を選んだ理由まで上手く展開できなければ、説得力が出ない。一番難しいのはここである。ここは論理的な力が必要だ。

 エントリーシートを馬鹿にしてはいけない。文章の基本がほとんど入っている。文章力の差は、こういう簡単な文章にも出てしまうのだ。私は、一応文章のプロだと放言しているので、ここは、自信を持って念を押したのである。

      ゆるやかに更衣せし日々過ぎる

哲学書を読む…2007/06/06 00:53

 本屋で学生向けの読みやすい哲学関係の本を探したが、なかなか見つからない。たまたま手に取ったのが筑摩プリマー新書『はじめの哲学』(三好由紀彦)という本で、読みやすそうなので、帰りの電車の中で読んだ。

 要するに、存在の根っことしての始まりを人間は掴むことが出来るかという哲学のテーマをわかりやすく解説した本で、結論は、「出来ない」である。「生きていること」が存在の根本だという結論は、実存主義というよりは現象学的なまとめた方である。

 ただ、著者は「死後の世界」の側でなく、「生きていること」としての世界の側にシフトするべきだと最後に語る。例えば従来の哲学も、科学や宗教も、「死後の世界」(つまり、存在の根っことしての始まりは死後の世界があるという前提に立つ)、をあるかないかわからないのに「ある」とみなすことで成立している。宗教のみならず、科学も、人間を物質とみなすという点で「死後の世界」は前提になっているという。人間が生きていなくても物質的な世界は存在するという前提で科学は、人間を扱う。その結果、人間が生きている、ということの大事さを見失い、科学は、人間が生きられないような環境を作り出してしまった、というのだ。人間が生きているということを大事にする世界であるためには、「死後の世界」ではなく、「生きていること」の側に立つべきだというのだ。一見もっともだが、そうだろうか。

 人間の生きていることを、自然(死後の世界にも生き残るもの)より優先させる、もしくは絶対化する、そういう思考が、環境を破壊したのではないか。そうも言えるはずだ。問題は「生きている」というあり方そのものが、たえず矛盾をはらむということだ。何故なら、「生きている」という存在もしくは意識自体は、単独のものではなく、相互的な関係の中で(誰も一人では生きられない)成立したものでありながら、その相互的な関係を把握できないからだ。

 従って、「生きている」こと自体は、その上手くいかない関係に悩むはずであり、その解決として、関係の外部としての「死後の世界」が必然化される。「死後の世界」は、上手くいかない「生きている」ことの内在的な矛盾を、なだめたり、癒したり、あるいは、その矛盾の解決なのである。

 逆に「死後の世界」を排除し、「生きていること」を絶対化すれば、たぶんファシズムになる。つまり、この世の論理だけで「生きている」ことが孕む矛盾を解決しようとすれば、人為的な権力を絶対化させ、自己中心的になるしかない。むろん、民主主義もこの世の側の論理だが、ここで言いたいことは、謙虚さのことであり、「生きていること」を絶対視することは、謙虚さを失うということだ。「生きていること」の限界を「生きていること」の内部だけでは思い知ることはできない。だからこそ、「死後の世界」の側が意味を持つ。

 その意味でこの本の結論は安易だという印象を持ったが、短いというのと平易な結論を要求されたということもあるのだろう。推薦図書にしようかどうか迷うところだ。少しは哲学的な思考になじんでほしいし、存在とは何かとか死とは何かとか、考える機会を持って欲しい。結論はともかくそういう機会を得るための本としては悪くはない。

     六月存在の向こう側は空

推薦図書2007/06/06 23:55

 推薦図書の選定が迫っていて、今はとにかくいろんな本を漁って読んでいる。勤め先はその点便利がいい。神保町は本屋の街だから、古書だけではなく、新刊本もたくさん売っている。今日、通勤時間で読んだのは、小川洋子『物語の役割』、天道荒太『包帯クラブ』。いずれも、ちくまプリマー新書。別にこの新書にこだわったわけではないが、たまたま目に入ったというだけである。とにかく、あれこれ探しているほど暇ではないし、とにかく本の量が圧倒的に多いので、たまたまの出会いでいいのである。

 推薦図書の目的は、なるべく本を読んでもらうこと。そのためには、教養的な本ばかりでもだめである。かといってエンタメ系ではだめで、やはり、青春ものの小説がどうしても多くなる。

 『包帯クラブ』は映画化されるとあって、確かにアイデアは面白い。物語の出来としてはいまいちだが、傷つきやすいものたちの傷にかかわりある物に包帯を巻くという象徴的な行為を通して心を癒そうという、高校生たちの試みを描いたもので、確かに映像として伝わってくる物語ではある。

 小川洋子の『物語の役割』は、自分の小説創作の方法や読書体験を、ある大学の講義で語ったものの活字化である。その意味で読みやすく、内容もなかなか面白かった。難しく無いのが一番いい。一番良かったのは、かつては自分とは何かというようなことを考えて書いていたが、自分のことなどつきつめて考えてもたいしたものではない悟って、それから、自分の外側に出ていろんな想像力を働かせる事ができるようになったと語っているところだ。こういうのはやはり作家でないと言えないことだ。

 若いときは誰でも何時でも自分探しで余裕がない。が、そこから、上手く離れられたときに、自分にいろんな可能性が生まれるというわけだ。ただ、やはり一度は自分探しをしなきゃならないだろう。そういう通過儀礼を経ないとやはり小川洋子のような作家にははなれないということだ。

 推薦図書は35冊くらいになりそうだ。それを読書室に数冊ずつ揃え、学生に読んでもらおうという計画である。リストアップは学生や教員が関わっているが、最後には私がまとめる。この作業は大変だが楽しかった。明日作成したリストを発表する。

      梅雨始め本読む背中並びたり

推薦図書決まる2007/06/10 01:24

今日はオープンキャンパスと地方出身学生との懇談会である。本当は、土日と昔の知り合いたちとの同窓会のような旅行の予定であったが、懇談会が入ったので参加を取りやめた。

 私の学科には親元を離れて一人で暮らす学生が一割はいる。いろいろと不安を抱えているだろうし、それに、学科としても地方出身の学生をもっと集めたいということもあって、いろいろ情報を集めようと懇談会を企画した。ケーキをたべながら話をしようと誘った。

 一応、高島屋のデパ地下で有名なケーキを買ってきておいたのだが、時期が遅かったせいと、土曜日なのでみんな用事があって、参加したのは3名であった。もうこの時期になるとホームシックを卒業して、けっこう友達と楽しくやっている。わざわざ土曜日に懇談会なんかこないものだ。が、かえって少なかったせいかいろいろと楽しく話が出来た。今度は、後期にもっと集めて懇談会をしようということになった。

 オープンキャンパスは相談員の教師がてんてこ舞いになるほどけっこう相談が多くて、私も手伝った。ほとんどが心理学コースの質問である。一応心理学の専門家を育てるコースではありませんよとは言っているのだが、それでも人気はあるようだ。来年はどうなるのだろう。

 金曜は貴重な研究日だが、時々会議が入る。金曜に会議が入ると月曜から土曜まで仕事ということになる場合が多い。昨日も会議の予定だったが、中止となったので、出校せずにすんだ。が、疲れているのか本が読めない。すぐに眠くなる。ここんとこ小説ばかり読んでいたが、不思議と物語は眠くならない。研究にかかわる論文とか思想関係は眠くなる。こういうことじゃ立派な研究者にはなれんな、と反省。なるつもりもないんだが、ただ、今興味をもっているテーマについてはそれなりの仕事はしておきたいとは思う。

 推薦図書の本がほぼ決まった。40冊近くになった。けっこういろいろある。学生が読みたいと思う本や読ませたい本で、なるべく安く気軽に借りられるようなものを選んだ。いかにもアカデミックな、というものとは違うが、大事なのはたくさん読ませること。それぞれ5冊から8冊くらい揃えて、学生に貸し出しをし、読書レポートを書いてもらって、書いた人にはポイントをあげる。うまくいけばいいが。選んだ本を挙げておく。

三浦哲郎 「ユタと不思議な仲間たち」
佐藤多佳子 「黄色い目の魚」
伊坂幸太郎 「アヒルと鴨のコインロッカー」
いしいしんじ 「ぶらんこ乗り」
村上春樹 「海辺のカフカ 上下」
江國香織 「きらきらひかる」
星 新一 「ブランコの向こうで」
太平光代 「だからあなたも生きぬいて」
河本準一 「一人二役」
ミヒャエル・エンデ 「モモ」
天道荒太 「包帯クラブ」
豊島ミホ 「神田川デイズ」
リリー・フランキー  「東京タワー」
李良枝 「由煕 ナビ・タリョン」
村上 龍 「寂しい国の殺人」
吉本ばなな 「キッチン」
綿矢りさ 「蹴りたい背中」
青山七恵 「ひとり日和」
小川洋子 「博士の愛した数式」
サリンジャー(村上春樹訳)「キャッチャー・イン・ザ・ライ」
小泉吉宏 「 まろ・ん?大掴源氏物語」
宮沢賢治 「注文の多い料理店」
宮沢賢治 「 銀河鉄道の夜」
シェイクスピア 「ハムレット」
シェイクスピア 「ヴェニスの商人」
シェイクスピア 「マクベス」
岩波文庫編集部  「読書という体験」
フィリパ・ピアス  「トムは真夜中の庭で」
小川洋子 「物語の役割」
河合隼雄・工藤直子   「こころの天気図 」
浦河べてるの家   「べてる家の非援助論」
河合隼雄 「こころの処方箋」
河合隼雄 「昔話の深層」
吉田 浩 「 日本村100人の仲間たち」
若桑みどり 「お姫様とジェンダー」
三好由紀彦 「はじめの哲学」
コンラート・ローレンツ 「 ソロモンの指輪」

教えるのは難しい…2007/06/12 00:03

 今日の基礎ゼミナールはレポートの書き方の講義だったが、うまくいかなかった。つい、かつての予備校当時の講義の乗りになっていて、こちらのテンションが空回りした。論文やレポートの書き方を真剣に聞く学生は一部だけなのはわかっている。要するにプレゼンテーション能力に欠けるところがある、と実感。教員は客商売だということをこういうときはいつも心に刻む。

 教えるということは時にとても難しい。文学関係の授業は、時にこちらの興味と学生の関心が重ならないときがある。どうしたら自分が面白がっているその面白さに学生を巻き込むか腐心するが、それが難しい。知識を伝えるのは簡単だが気持ちを伝えるのはやっかいである。むろん熱心聞く何人かは必ずいるのでそういう学生には必ず伝わる。が、プロとしては、それでは満足できない。全員に伝わらなくては満足できない。その意味では、教員は全体主義者に似るが、どちらかと言えば芸人といったほうがいい。知識を伝えるだけなら、インターネットの講義で充分である。ライブの乗りで客(学生)を感動させたいという欲求は教員なら誰でも持っているだろう。

 ただ、そういうのは、時代の問題がかかわっていて、競争原理にのせられている面がないわけではない。それは心得ておく必要があるだろう。学生は消費者が神であるようには神なのではない。消費者は快楽を価値とするところがある。その原則を教育の場に持ち込むと、教育自体は軽薄なものになる。

 最近、若い人たちの小説は何冊も読んだが、そこで感じたことは、やはり芥川賞をもらった作品は、他のわかりやすい青春小説とは違うなあというものだった。その違いは、内面の描き方である。「蹴りたい背中」や「蛇のピアス」、「ひとり日和」にしても、主人公の内面は、決して爽やかでも明るくもない。むしろ、出口のふさがれたようないらだたしさに満ちている。

 他のベストセラーになるような青春小説には、それがない。何処かにある一定の快感原則が貫かれていて、不快にならないような無意識の抑制が働いている。一方、鬱々した引きこもり的な世界は、わかりやすいホラーものや暴力を主題にした物語になる。爽やか系かおたく系、といったところだ。

 教育も似たところがある。ある知識には、必ずその知識を必要とする人間の内面というものが貼り付いている。その内面は必ずしも伝える必要の無いものだが、伝えてしまうのが教員の業というものだ。が、その内面は、芥川賞の作品のように快感としては伝わらない。だから競争原理はこの業を封印し、爽やか系の小説のように知識を快感で包んで提供するようにする。それがプレゼンテーション能力と見なされる。内面を伝えたい業を捨てきれない私などは、今の時代は正直辛いが、競争原理を回避してぬくぬくというわけにもいかない。学生はそういう時代を生き抜かなければならないのだ。とすれば、そういう時代を生き抜く術を、楽しく伝えるというのもまた大事なことなのだ。

       教師にも六月の雨降り止まぬ

久しぶりに八王子2007/06/14 00:37

 八王子の付属高校で学生向けの進学相談会があり、八王子の校舎へと出かけた。家からは車で、川越インターから入り、圏央道の終点、あきる野で降りるとすぐである。ただ料金が片道1600円かかる。高い。実は来週、圏央道が中央高速とつながる。茅野の山小屋にしょっちゅう通っている私としては歓迎なのだが相当料金が高くなりそうだ。

 私の所属する大学はこの八王子校舎から今年撤退した。ただ、中学高校はそのまま残っている。短大にも志願者がいるというので、私が出かけることになったのだが、ほとんどが心理学コースの志願者である。

 先日のオーブンキャンパスでも心理学コースの相談が多かった。志願者がいるということはうれしい限りなのだが、ただ、短大であるが故に複雑な心境でもある。心理学を本格的に勉強したいのなら四大を目指すべきだろうし、就職にしても、特に心理学コースだからこういう職業に向いています、とはなかなか言えない。

 一時期全国の大学に心理学部がたくさん作られたが、今どこでも学生集めに苦労していると聞く。その大きな理由は資格を取ることの難しさと、資格をとったからといって、それが安定した職業に結びつかないことにあるようだ。例えば臨床心理士はカウンセラーとしてひっぱりだこだが、ほとんどが派遣である。医者や看護師のように専門の施設があってそこで働くというわけではない。資格を取ったから生活が保障されるというわけではない。

 短大では、資格は最初から無理だし、専門を目指すなら他大学の心理学部の編入を目指し、ここでは教養として心理学の知識を身につけてもらえばいいと思っている。どんな職業に就けばいいですか、とよく質問されるが、一応、人間の心を勉強するのだから、人と接する機会の多い職業などがいいのでは、と答える。が、本当は、心理学を勉強したから人と接する事が上手くなるなんてことはない。

 人と接する技術というのは、友達や親との関係の中で、自然に身についていくものである。むしろ、それがなかなかうまくいかないときに、その理由を考える学問として心理学が成立するということだ。ということは、心理学を勉強したい学生は、どこか人と接することが上手くいかないという問題を抱えている場合が多い。心理学の知識は、学生に何故そうなったのか、どうすればいいのかを教えるが、人と明るく接するようにと背中を押してくれるわけではない。むしろ、考えさせてしまうのだから、その意味では、人と接する職業についたら、とはなかなか言えない。

 ただ、人との関係に悩んだとき、その悩みを整理して客観視する力を与えてくれる。これは大きいと思う。それは他者との関係を改善はしないだろうが自分との関係は改善してくれる。それだけでもいい。その意味で、心理学を勉強したからこういう職業に向いています、とは言えないが、どんな職業についても役には立ちますよ、とは言えるだろう。その意味で、文学を学ぶこととそんなに違いはないのだと私などは思っている。

       他人との距離をはかりつつ六月

緑が濃く…2007/06/16 00:22


 今日は研究日。山小屋で仕事というつもりで来ては見たが、天気がとても良くなったので、いろいろと肉体労働にいそしんだ。まず道路際に積んであった薪を薪小屋に運んで片付けた。山小屋は道路の下にあるのでアプローチの階段の上り下りがけっこう大変。汗だくになった。

 薪といっても、伐採した樹を1メートルほどに切ったもので、下に運ぶのが大変だから道路際に積んでシートをかぶせておいたのである。最後に人力では運べない大きな丸太が残った。どうしようか考えたが、チェンソーで短く切る手もあったが、ベンチにしてしまおうと、皮をむき、縦に並べた小さな丸太二本の上にその皮をむいた大きな丸太を横に渡した。散歩に通った人がここで腰をかけてくれればよいのだが。

 実は、山小屋に通じるアプローチの路の下側は4・5メートルの崖になっていて、毎年少しずつ崩れている。特に冬は霜柱等で土が崩れやすくなる。樹を植えるほどには緩やかではない。このままでは崖の土が崩れ、崖の上の樹木が倒れて山小屋を直撃しかねない。そこで、業者に頼み、崖の崩れを防ぐ工事をした。

 鉄製の網で作られた長方形の籠がある。長さ1㍍奥行きが50センチほどの籠だが、その籠の中に石と土を入れ上の部分には草の種を蒔いておく。その籠を崖に沿って下から階段状に並べていくのである。先週から工事が始まり来てみたら出来ていた。なかなか壮観であった。全部で24個の籠が並べられていた。ちなみに一個の値段は1万円ということである。それに手間賃を加えたのが工事費で、痛い出費になるが仕方がない。

 山の斜面に立てた家だからいろいろと無理がある。が、これで安心して住めるようになった。今年の夏は猛暑だからほとんどはこっちで暮らすようになる。私は田舎暮らしが好きだし、アウトドア派なので、本当はこっちで暮らしたいのだが、なにしろ東京の真ん中に勤め先があるのでそういうわけにもいかない。

 夕方、霧ヶ峰農場で一人で暮らしている知り合いの女性を奥さんと訪ね、近くの温泉に行く。家で一緒に夕食。山の緑はかなり濃くなった。明日も天気が良いという。授業の準備や、持ってきた本を読もうと思ってはいるが、出来るかどうか。持ってきた本は、萩原秀三郎『鬼の復権』、近藤信義の『枕詞論』と『音喩論』。『鬼の復権』は授業用だが、読了した。近藤氏の本は再読。『枕詞論』を読み始めたがけっこう面白い。

     読みかけの本を閉じ緑陰に

友人を見舞う2007/06/17 23:46

 歌における枕詞の面白さとは何だろう。いろいろ言われているが、ある言葉を別のある言葉を引き出す言葉としてパターン化したとき、その言葉は誰にでも使える歌の言葉として普及した、ということにあるのではないか。これは歌の言葉としては大きかったように思う。

 近藤信義は『枕詞論』の中で、地名起源譚の徹底分析を行って、枕詞が、地名の起源を語る際の古語として、生成される様子を分析している。地名起源を必要とするのは、律令国家だが、地名の起源を作り出すことが、その地そのものの所有につながるからである。律文として伝承されていた地名にかかわる神話が、その地名の律令国家によるインデックスとして、バラバラにされて編集し直されたとき、地名にかかわる枕詞が成立した。

 その時大事なのは、意味的にはほとんど脈絡のない喩として枕詞は機能するが、その修飾の保証は国家というものの普遍性にあるということではないか。つまり、ある特定の地名にまつわるその特定の神話的機能を解体して、その地域以外でも理解可能な、ある地名を修飾する何か神話的な雰囲気を持った言葉として普遍化されたということだ。

 枕詞が和歌の歌の言葉として広がっていくのは、この普遍性にあることは間違いないだろう。別の言い方をすれば、地方の特殊性と、国家の普遍性(流通性)、これを両方兼ね備えたように見える言葉が枕詞である。近藤氏の枕詞論を読みながら、とりあえずそのように考えてみた。

 この問題はたぶん序詞などの和歌の修飾語にもつながってくる問題である。しばらく、このことを考えてみようと思う。

 梅雨に入ったのにとても天気が良い、下界は30度近くまで気温が上がったようだ。山の上は、とても涼しい、夜はまだストーブをつけている。15度くらいまでさがるので、まだ暖房は必要である。

 今日は、下界(東京)に戻り、癌で療養中の友人を見舞う。一週間前に、手術をして退院したばかりだというのだが、元気そうだった。ノルウェー製の30万もするリクライニングの椅子があった。買ったばかりであるという。長野から帰る途中山梨で葡萄の御菓子の「月の雫」とかいうのを買って来てくれと頼まれたが、季節限定らしく出ていなかった。代わりに、果物を入れ込んだ高級そうな蒟蒻ゼリーの和菓子を買っていったが、何度も喉につまらせるなと注意した。

     青虫もいろんな虫も青葉にて

     生きておれば在るも在らぬも六月