国学は難しそう2006/12/19 01:35

 午前は『国学の他者像』を再読。昼頃出校。電車の中でさらに読んでいたが、さすがに首が痛くなってきた。また持病が出たらしい。電車で読書するとどうしても頭が下がり首に負担がかかる。結局、余り読めずじまい。

 午後は雑務と授業の準備。合間を縫って再び読書、何とか読了。二回目だが難解な本だ。特に、本居宣長のところが上手くつかめない。

 6時から教養教育の会議。8時近くに終わりいつものメンバーで食事をして帰る。家に着いたのは11時近くになってしまった。

 筆者によれば、宣長は、古の素直なこころというのは、現在の和歌の言葉では捉えることは不可能であるといっている。つまりどうしても言葉を飾り虚偽になつてしまう。が、それが今の言葉の実情ならそれに従うのも仕方がない、という。それもまたありのままのこころなのだということだ。

 むしろ、ことさら構えて意味として古を探求することの方が悪しきことだというのである。それなら古にどう近づくのか。古に対して今の我は偽りとしてしか存在できないから、その我を隠し無私の立場に立って、ありのままという直接性に近寄っていくしかない、ということであろうか。

 ありのままの直接性、つまり言葉と存在が一致しているような古の有り様と、それを希求する主体はどうしても乖離せざるを得ない、その乖離を前提として受けいれた上で、宣長は、私を捨てありのままに振る舞えばいいのだと言っているようだ。例えばそれが和歌の「情」ということになる。とりあえずそう読んだのだが、宣長を詳しく読んでないので、この理解もまた危うい。

 いずれにしろ、国学者達は、言葉と存在との直接的な一致を理想としながら、現実の言葉は到底そのようなものではないし、また、それを希求する方法は極めて困難であるという認識から出発したということだ。彼等は和歌の「情」からそのような認識を得るが、同時に和歌の「情」にその解決を見いだす。むろん、「情」それ自体は解決の論理を持たないから、神という超越的な概念を「情」に与えるかもしくは背後に控えさせることで、「情」は人間のこころを直きありのままの状態に浄化するというのである。この論理は、冨士谷御杖によって完成される。

 以上何とかまとめたが自信はない。ただ面白かったのは、和歌の「情」を通して、意味としての言葉ではなく、存在としての言葉のモノ性にこだわったという点だ。そこには、「情」の言葉が規範から逸脱する過剰さを持ちながら、この世を生きる人のこころそのものとして共感される、そのかたちに、神秘さを感じたということであろう。

『国学の他者像』はそこに応用倫理学的な可能性を求めているが、私などは、普遍を共有していく言葉の不思議なありようとして関心を抱く。それは、言葉が公的にひらかれていくのではなく、自閉的に閉じられながらも逆に広がりをもってしまうような構造である。その意味ではいろいろと考えることの多かった本である。

     枯野に情ありひらきゆくこころかな

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