勤勉が取得 ― 2007/02/10 01:19
激務の入試期間が終わった。何とか無事にすんだ。志願者はやや減らしたけど、倍率が出る位の志願者は確保できている。ほっとしたというところか。
とりあえず大きな山場は越えた。いよいよこれから自分の仕事をしなきゃいけない。実はこっちの方が激務である。学校の雑務はいわばルーティンワークだから、私でなければ出来ないという仕事ではない。が研究や論文を書く仕事は違う。私でなくてもよかったのではないか、などと思われるものを書いたらだめなのである。そういう研究者も多いし、私だって、たまにはそういうのを書くが、一応プライドというものがあって、なるべく、私なりの仕事をしようと思っている。だから、それなりのプレッシャーはあるわけである。
アイデアの機械である研究者は自分を不安定にすると、昨日書いた。どういうことかというと、アイデアが産まれるには、そのアイデアが産まれるところの状況がそのアイデアを必然とするほどに危機的であることが一つの条件となる。安定した状況からはいいアイデアは産まれない。だから、アイデアを産む研究者は、その危機的状況を過度に負っていることがまた条件となる。アイデアを産む必然を持たなければアイデアは産まれないということ。
だから、まずこの時点で研究者は不安定な存在になる。そのアイデアは研究者自身を含む社会の危機を解決するように働くもののはずである。そういう者であるからこそそのアイデアは評価される。だが、問題は、そのアイデアは、アイデアを生み出した研究者の危機を解決するようには働かない。なぜなら、研究者は、アイデアを生み出す状態に常に自分を置かなければならないからである。
例えば厳しい競争社会で疲れた身体を癒す機械を作ったとして、その機械はその機械を生み出した研究者を決して癒さない。癒したら、それは研究者の生命そのものを奪うことになる。とすれば、研究者は、自らが抱えた危機を解決するアイデアを生み出しながらその解決の対象範囲から常に自分を除外し続ける存在なのである。
こういうのを研究者の業とも言うが、たぶんに優れた研究者はこういう業をたくさん抱えている人だ。そういう点で私は優れた研究者ではない。生活者とは、アイデアの恩恵を受ける側である。それを生み出すためにその恩恵から自分を除外するものではない。私は生活者でありたいと願っているし、たぶんかなりの部分生活者である。
業のない人間が研究するのは辛いことだ。アドレナリンがうまく出てこない。それでも何とか研究めいた仕事を続けているのは、まだ多少の危機感を抱えているのと、勤勉なせいだ。それもいつまで続くやらである。
春時雨勤勉なわれら傘を差す
とりあえず大きな山場は越えた。いよいよこれから自分の仕事をしなきゃいけない。実はこっちの方が激務である。学校の雑務はいわばルーティンワークだから、私でなければ出来ないという仕事ではない。が研究や論文を書く仕事は違う。私でなくてもよかったのではないか、などと思われるものを書いたらだめなのである。そういう研究者も多いし、私だって、たまにはそういうのを書くが、一応プライドというものがあって、なるべく、私なりの仕事をしようと思っている。だから、それなりのプレッシャーはあるわけである。
アイデアの機械である研究者は自分を不安定にすると、昨日書いた。どういうことかというと、アイデアが産まれるには、そのアイデアが産まれるところの状況がそのアイデアを必然とするほどに危機的であることが一つの条件となる。安定した状況からはいいアイデアは産まれない。だから、アイデアを産む研究者は、その危機的状況を過度に負っていることがまた条件となる。アイデアを産む必然を持たなければアイデアは産まれないということ。
だから、まずこの時点で研究者は不安定な存在になる。そのアイデアは研究者自身を含む社会の危機を解決するように働くもののはずである。そういう者であるからこそそのアイデアは評価される。だが、問題は、そのアイデアは、アイデアを生み出した研究者の危機を解決するようには働かない。なぜなら、研究者は、アイデアを生み出す状態に常に自分を置かなければならないからである。
例えば厳しい競争社会で疲れた身体を癒す機械を作ったとして、その機械はその機械を生み出した研究者を決して癒さない。癒したら、それは研究者の生命そのものを奪うことになる。とすれば、研究者は、自らが抱えた危機を解決するアイデアを生み出しながらその解決の対象範囲から常に自分を除外し続ける存在なのである。
こういうのを研究者の業とも言うが、たぶんに優れた研究者はこういう業をたくさん抱えている人だ。そういう点で私は優れた研究者ではない。生活者とは、アイデアの恩恵を受ける側である。それを生み出すためにその恩恵から自分を除外するものではない。私は生活者でありたいと願っているし、たぶんかなりの部分生活者である。
業のない人間が研究するのは辛いことだ。アドレナリンがうまく出てこない。それでも何とか研究めいた仕事を続けているのは、まだ多少の危機感を抱えているのと、勤勉なせいだ。それもいつまで続くやらである。
春時雨勤勉なわれら傘を差す
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