自分は見えない2007/02/09 00:22

 前日の「歩留まり」というのは私の言葉で一般的にこの業界で使われているのは定着率という言葉です。誤解があるといけないので訂正します。

 ということで今日も朝から夜まで入試業務。明日も朝早くから会議だ。家に帰ってきたのが9時過ぎていた。それから夕食。ほんのちょっと焼酎の水割りを飲む。ちょっとふらふらになって回復するのにだいたい2時間かかる。それから、また仕事である。

 この2時間がもったいないと思うが、これを無くしたらたぶん私は持たないだろう。学校でもだいたい休み無しに仕事している。昼食は、自然食品専門のローソンで弁当を買ってきて食べるのだが、弁当食べながら何か仕事している。たぶん、ぐだーっとしているのは、夕食後の2時間程度だ。こういう息抜きの時間は必要である。

 この時間にテレビをみながらぼんやりしている。10時からNHKでマサチューセッツ工科大学の教授でコンピューター研究者を紹介する「プロフェッショナル」という番組をやっていて、半分寝ながら見ていた。日本の社会で特に優れた才能の持ち主や成功者をゲストによんでその仕事ぶりを紹介する番組だ。以前やっていた「プロジェクトX」と似ているというか、その後継となる番組だろう。

 彼は大学院の教授をしていて何人かの大学院生の指導をしている。どうやら、大学院生は、斬新な研究テーマを出さないとそこから追い出されるらしく、必死になってアイデアを考えている。教授は、彼等に自分の体験を語りながら厳しくあたる。

 アイデアを出してもWHY?を連発し曖昧な答えを出すともう一度考え直せと突き放す。さすがに厳しい成果主義の中を生き抜いている現場の迫力が伝わってきた。アイデアをものにするためには哲学がないとだめだという言い方をしていた。他人の意見に耳を傾ける謙虚さも必要だと言っていた。なかなか耳の痛い言葉である。

 こういう厳しい研究環境はやはり必要なのだろうなとは思う。ただ、こういう環境を支えているのは、良いアイデアや成果に対しては、報酬や地位や職が保証されるというシステムだ。これがなければ、誰も厳しさを求めない。日本がそうだ。

 が、ここでWHY?だ。何故成果が必要なのだ。ただ成功したいためか。成功してどうしたいのか?社会に貢献したいということか?それじゃ貢献とはどういうことか? コンピューターに支配される社会を作ることか?等々、WHY?はたくさんあり、たぶんこの番組はこれに答えない。

大学院生のアイデアが、人のぬくもりをいかにコンピューターで実現するのか、という、コンピューター社会が失ったものを取り戻すようなテーマを出しているのが印象的だった。それが、哲学なのか、それとも、そこにこれからの社会のニーズがあると読んだのか。たぶん両方なのだろう。

 この教授も宮沢賢治の「永訣の朝」の生原稿を見て、その機械的でない字の感触をコンピューターに組み込んだことで成果を上げた。が、本人は、機械化された社会の最先端で自然とは切り離された生活を送っている。

 そこで、考えたことは、人は自分のことは見えないが人の欠点は良く見えるということ。実は、そこに人がアイデアを思いつく秘密がある。われわれは他者に何が欠けているかは良くわかる。が、自分に何が欠けているかは他者についてわかるようにはわからない。つまり、誰もが、そういう不完全さそのものであるということ。

 研究者というアイデアの機械になることは(産む機械ではありません)、そういうアンバランスで不安定な存在になりきることだ。文学系の研究の場合、他者とは自分のことでもある。とすれば、自分を見つめることは自分を見失うことだ。いずれにしろ健全ではない(健全という言葉も問題になった気がするが)。最近健全であろうとしている私が、いい研究者になれないのは、そういうことだったのだ。

      よろめきて他者の重さや春の風邪