晴と褻2007/02/28 01:43

 今日は会議日。朝10時から夕方7時まで昼を食べる暇のないくらい忙しかった。帰って9時近くに夕食、芋焼酎の水割りを一杯飲んだらふらふらとしてきた。さすがに疲れている。さすがに、こういう時は、川越まで帰るのはしんどいと思う。電車に乗ってる時間はだいたい一時間。通勤時間帯だとほぼ座れない。

 地方で一時間電車に乗って通うというのはそんなにないだろう。一時間乗ったら隣の県に行ってしまう。地方で、一時間以上かけて隣の県に通勤する人はまずいない。が、首都圏はそれが普通だ。私だって埼玉から東京の真ん中まで通っている。

 経済効率から見れば、かなりの経済的損失であるのは確かだ。往復二時間から三時間の時間が、ほとんど居眠りか、ぼんやりした無為の時間か、あるいは体力の消耗に消えているからだ。最初はこの時間を読書にあてていたが、さすがに疲れると出来ない。

 仙台駅から仙山線に乗って30分ほど乗ると山間の温泉地についた。東京駅から30分乗っても、大宮か立川につくだけだ。地方はそういうところは悪くない。東京の真ん中で働いていると、思わず忙しく動き回ってしまうのは、ここには、経済的な価値が凝集しているからだ。土地も情報も人も東京が一番経済価値を持つ。そこで働けば、のんびりなんてできやしない。

 東京の都市機能を分散させる話が立ち消えになってしまったが、ある意味では当然である。サービス産業型の消費資本主義経済は、快適さを徹底して集中化させる。効率性とは快適さである。情報のやり取り、人と人との付き合い、美の追求、自然へのあこがれ、それら人間の欲望のすべてを全部集中化させるのが、現代における都市の役割であり機能になる。

 分散はそういう都市のあり方に逆行する。だから、分散は無理なのだ。首都移転などその意味で出来はしないだろう。新幹線や航空路線などの交通機関の発達は、東京を中心とした都市の欲望の地方化であって、結局は、中央の都市の欲望に飲み込まれるための手段である。その意味では、地方都市の活性化とはならない。

 ただ、この都市の快適さは、生活の快適さというのとは違うものだ。いわば晴の快適さである。晴の快適さだから褻(生活)の側から見ればあこがれだが、実際に生活するとなるとただ疲れるだけだ。疲れるから、自給自足で暮らす貧乏さんを探す番組や、トキオのダッシュ村に人気が集まる。私もこれらの番組はよく見ている。

 都市は、自然に住む貧乏さんもあこがれやあるいはかっこいい生活に変えてしまう。それに乗せられて田舎に行って貧乏な生活をしてひどい目にあう奴がたくさん出るというわけだ。田舎に住むにはそれなりの覚悟がいる。ダッシュ村が快適に見えるのは、そこに生活がないからだ。都会の快適さとは、生活を見えなくするところにある。が、誰もが生活を抱えている。その矛盾は、個人がそれぞれ引き受けている。だから、都会の個人は、みな、晴と褻とのないまぜになった混乱した生き方をしている。

 私が都会で働き一時間半も掛けて通うのは、そこに生活が成り立ってしまったからだが、一方、都市の晴の作用にやや浸りすぎている、という面もある。どうやったら疲れないように生きられるのか、それは、都市が消そうとする個人の生活というものを消さないことだ。晴と褻の区別を自分の中できちんとつけることだろう。難しいこととは思うが。

    晴と褻や老若男女春の都市