今日から新年度2008/04/02 00:02


 いよいよ今日から新年度である。さっそく出校。今日は新入生が全員英語のプレイスメントテストを受ける日である。入学式は明日だが、新入生は今日から学力テストというわけだ。ご苦労さん。このテストで、英語のレベル別にクラスわけされる。

 中国から帰って、わが学科は、やはりというか計算が狂ったというべきか、こちらが予定していた入学予定者数をオーバーしてしまったことがわかった。計算ではぎりぎりで越えないだろうと思っていたのだが、例年より、定着率が良かったのと、入学辞退者が今年はほとんどいなかったのが、見込みの外れた理由である。

 必修科目は、こちらの予定した入学予定者数で、クラス数を決め、時間割を組んである。予想より多く入ったということは、一クラス辺りの人数が増えてしまうことで、あまりいいことではない。ある意味で嬉しい悲鳴ではあるが、多く取りすぎると、色々問題もあるのである。頭が痛いことである。

 昨日も書いたが、最後に泊まった広州のガーデンホテルのロビーはほんとに豪華であった。前日、鳳凰の村々を歩いて神懸かりの儀礼などを見ていた私たちは、その落差に面食らった。同行のロシア人のEさんは、まるで150年くらいの時間を旅したようですね、と言った。ほんとに、150年前の村の文化からいきなり21世紀のホテルにタイムスリップしたようなものである。

 
           春の日や新入生の白い襟

危機と文化2008/04/04 00:21

 4月になって暗い話題ばかりだ。テレビでは日本の凋落とか、4月クライシスとか、穏やかでない特集ばかりである。ほんとに危機なのかどうか、むしろ、もっと危機的な世界のいろんな国とようやく肩を並べたということだろう。

 現在の危機は、グローバリズムの中での資本主義の論理が、ある意味では非情に日本に働いた一つの結果だと言えるが、同じグローバリズムの競争原理にさらされているヨーロッパでは貧しい移民が暴動を起こすほどに危機的であることを忘れてはいけないだろう。

 危機的といっても、世界の中ではいろいろレベル差がある。多くの人間が飢餓に瀕する危機もあれば、とりあえず衣食住はあるが仕事がないという程度の危機もある。アフリカの絶望的な危機に比べれば、日本の危機は、今までの豊かさとの比較の上での危機であって、まだまだたいしたことはないという見方がある。が、本当の問題は、危機という認識自体にわれわれが呪縛されているということではないか。

 今日、ブータンの歌文化の研究者といろいろ話をした。こんどのアジア民族文化学会で発表をしてもらう。ブータンは経済力はないが幸福度は世界でトップだとテレビで報道されているが、あれは嘘だという。ブータンもまたグローバリズムの怪物に侵略されつつあるらしい。

 ブータンの歌は「ツォンマ」と言うが、とにかく生活のいろんな場面で、むろん恋愛だけてなく、歌の掛け合いが機能していて、それは重要なコミュニケーションの手段になっているという。そういう時間をかけて作られてきた文化を大事にしないと不幸になるんじゃないか、という点で意見が一致した。

 文化という定義は難しいが、希望などという近代的な目標設定などなくても、充分にそれほど危機をかんじることなく生きられるシステムを用意するのがある意味では文化ではないだろうか。が、それを失ったとき、われわれはちょっとした経済的な動きですぐに落ち込み、危機だ!と警鐘を発せざるを得なくなる。

 社会のシステムが、経済力を失った者をいろんな意味で許容する力を持たなくなったということである。だから、すぐに危機だと言いたくなる。社会の許容力がないから、不安なのである。それは、何らかの大事な文化を失ったということでもあるだろう。

 失業してもワーキングプアでも、ぜいたく言わなきゃなんとかなるさ、というような、社会の許容力の基盤となるような文化の力をたぶんわれわれは失っている。例えば私が研究している歌文化なども、そういう文化の一つだろうと思っている。

       危機的日本春の風吹き抜く

僧と妄想2008/04/05 00:08

ブータンの話の続きであるが、I氏の話は面白く、発表の打ち合わせなのに、2時間近くブータンの話題で盛り上がった。

 ブータンはチベットと同じく仏教の国であり、あちこちにお寺がある。多くの家では子どもが何人かいるとそのうちの一人は僧になするために寺に預ける。こういう習慣はよく知られているが、I氏によると、お寺というのは、この地方における人口調節機能の役割なのだという。

 ブータンでは、子どもや幼児の死亡率が高いので、子どもをたくさん産む。子ども重要な労働力になるからである。たくさん産んでも何人かは死んでしまうから、丁度いい数が残る。だが、なかには、全員が育ってしまう場合がある。そういう子だくさんの家では、今度は子どもを養うことが出来ない。それで、お寺に預けるのだという。

 一人の子どもを預けたはいいが、その後自分の家の子どもが病で死んでしまったらどうするか。お寺から家に戻すのだということだ。なるほど、確かにお寺は地域の人口調節機能と言う役割を果たしているわけだ。

 僧侶はどこでもそうだが、禁欲的なものばかりではない。ブータンの僧侶だって例外ではなく、同性愛を意味する言葉はちゃんとあるのだという。そして、けっこう欲望を抑えられなくなり、僧をやめるものも多いそうだ。僧を辞めて何をするのかというと、これがタクシーの運転手なのだそうだ。ブータンのタクシーの運転手の半分はもと僧侶だと話していた。

 外側から見てはこういうことはなかなか見えてこないが、さすがに現地に精通している人ならではの話であった。

 ところで、私は古代の学会シンポジウムのパネラーになっているので、その準備をしなくてはならないのだが、なかなか出来ない。どうも中国から帰ってきてから、疲れやすくてなかなか本が読めないのである。自分ではそんなに辛い旅ではなかったのだが、身体はそこそこつらかったようだ。やはり歳である。

 笙野頼子論を少し展開して、天理教の中山みき「おふでさき」などを比較しながら、神話における私性といったものについて論じられたらいいと思っている。神話は公的な言説だが、シャーマンの神懸かりの言葉は、必ずしも公的とは言えない。が、公的ではないとも言えない。妄想と言ってしまうと、そこには公も私もないが、その妄想の言葉でも、当事者のみならず他の人たちにとって意味あものであるなら、そこには私から公へという分離がある。実は、その分離の仕方そのものが文体でもあるのだ。だから、文体論という展開になるが、それは当然で、笙野頼子は、徹底して文体にこだわった作家なのである。文体のある意味での冒険によって、私性と公とを区別する秩序を破壊しながら、二つを同在させてしまおうというのが、笙野頼子の方法なのである。資料は、小説の文体だけ。だから、話は抽象的になる。いつもそうであるが。

         妄想が四月の街に潜みたり

本の整理で頭が痛い2008/04/07 00:47

 土曜は新入生歓迎会で出校。終わって、E君とアジア民族文化学会や、夏の調査のことなど打ち合わせ。テレビ局から、雲南の少数民族の特集をやるので、教えて欲しいとの打診が合ったということで、タイ族などの南の民族について私がディレクターにレクチャーしてくれないかと頼まれた。E君は北のイ族などをレクチャーするという。私はタイ族は専門でないのでと断ったが、詳しい知識ではなく、現地でのある程度の情報を教えればいいということで、引き受けた。去年の3月に私はタイ族の村に調査に入っているので、何とかレクチャーは出来るだろう。

 中央線からの車窓の景色は、桜があちこちに咲いてなかなかいい。枯れ木を背景に白く咲いているのは辛夷だろう。今日は、茅野の図書館に行って茅野市史を調べる。去年、別荘地のレストランのマスターから、近くの村の伝説を教えてもらい、それが「遠野物語」の「寒戸の婆」の話とそっくりだったので、一度きちんと調べておこうと思ったのである。私は茅野市史に載っているとばかり思いこんでいたので、図書館に行って茅野市史を開いてみると、載っていない。

 マスターは信州大学の教育学部の先生が集めた伝説だと言って、それが何処に掲載されているかは知らなかった。私は茅野市史の伝説を集めた所に載っているだろうと思ったのだが、見込み違いであった。困ってしまったのだが、信州の伝説を集めて本を片っ端から調べたら、信州の伝説を集めたある伝説集で見つかった。

 5・6歳の女の子を、田んぼで遊ばせていたところ行方不明になり、その女の子は50年経って車山で天狗と一緒にいるという噂が流れた。それから10年して近くで白髪になって現れたという。そこで行者に頼んで祈祷すると、その白髪の女は「もう人間の世界には来られないから、甲斐駒から車山に雲が早く行くときは私が乗っているので線香をたててくれ」と語ったという。

 いわゆる神隠しの話であるが、パターンは「サムトの婆」と同じである。出典が見つかったので安堵。

 夕方帰ってきたが、中央高速は混んでいた。帰り、自由農園で「五郎兵衛米」を5キロ買う。「五郎兵衛米」は佐久のコシヒカリで、知る人ぞ知るうまい米である。それから、小淵沢の丸山珈琲店に寄って珈琲を買って帰る。丸山珈琲店は軽井沢に本店があるのだが、小淵沢に支店を出したので、こっちでいつも買うことにしている。うちでは、珈琲は丸山珈琲のブレンドオンリーである。 

 今度引っ越すことになったので(たぶん間違いなく)、本の整理に追われている。かなり狭くなるので、本を処分しなきゃいけない。山小屋にとりあえず段ボールで6箱運び、山小屋に置いてある本で処分していいものを段ボール5箱持って帰った。研究室にも持って行かなくては。とにかくあちこちに本の置き場所を確保しないと、とてもじゃないが、今度の小さなマンションに本は入りきらない。どう整理していいか、頭が痛い。

まだ目覚めぬ山辛夷孤独に咲く

汚い歴史2008/04/08 01:06


 午前中に医者に行って血液検査の結果を聞く。悪玉コレステロール値はかなり下がったが今度は中性脂肪がかなり高い。あっちが下がればこっちが上がる。なかなかうまくいかないものである。血圧が普通だったので少し安堵。

 昼出校のつもりだったが、身体中が痛くなり断念。どうも、昨日山小屋で薪を運んだのと、引っ越しの準備で本を詰めた段ボールを何箱も階段を上げ下げしたその疲労が来たらしい。まあ、ガイダンスも無事に終わって、雑務は明日行けば何とかなりそうなので、今日は家で仕事である。

 本の整理もあるが、授業の準備や、学会の大会の案内状の作成や、会員住所の宛名シール作りとやることは山積している。身体が痛いと言って休んでもいられない。

 テレビでは中国の聖火ランナーが世界中で妨害にあっていると報道。イギリスでは特にひどい妨害にあっていたが、そのイギリスで中国人が世界のマスコミは嘘ばかり報道していると叫んでいたのを映していた。中国人の苛立ちがよくわかる。せっかく、オリンピックを自国で開いて世界に胸を張ろうとしていたのに、その反対になってしまったのだから。

 力で弾圧するとどういう結果を招くか、いいことは一つも無いのである。とにかく中国バッシングは今世界中で起きているという感がある。だが、今起きている中国バッシングには、やや中国人に同情する部分もないわけではない。中国政府のチベット弾圧は論外だが、添加物の問題や、その他もろもろ何でも中国の所為にしているところが日本も含めて世界にないわけではない。中国は今一種のスケープゴートになっているのではないか。

 10億以上の人間が遅ればせながら自分の欲望に従って生きたいと行動し出した。その資本主義的な欲求のためなら安い給料でも我慢して働く。世界の資本主義者は、安い給料で忍耐強く働く中国人を利用して安い商品を作り儲けている。何割かの人々はようやく自分の欲望をある程度満たす生活が可能になった。でも、ほとんどの中国人は、豊になろうと必死である。でも、世界が中国に期待しているのは、安い労働力で働け、金を儲けたら先進国の商品を買え、ということであって、そういうように中国を利用することで生み出された、中国の様々な矛盾は、中国嫌いの人々にとっては、自分たちの優越感を確かめてくれる中国の暗部なのである。が、その矛盾が中国国内におさまりきらず、世界に広がり出すと、今度は中国叩きを始める。環境破壊も、添加物の問題も、すべて先進国が今までやってきたことであるのにである。

 中国が今嫌われているのは、中国が社会主義国だからでも一党独裁だからでもなく、先進国が今までやって来た汚い歴史を遅ればせながら繰り返し始めたからである。たぶんわれわれはそれを見るに堪えないのだ。権力の横暴も、汚職も、環境破壊も、添加物も、拝金主義も、どれ一つとして中国が発明したものではない。先進国は、植民地時代は植民地として、改革開放以降は、安い労働力の供給国として中国を利用していたが、その中国が自分たちの負の部分を含めて経済力を身につけ始めると、自分たちの自身の醜い姿を見るような目で見始めたのだ。

 だから中国の人よ、日本や欧米のような先進国のやってきたことをそのまま繰り返すべきではない。社会主義でいろということではない。先進国の汚い歴史を繰り返さない賢明さを持てということなのだ。チベット問題は、欧米の汚い歴史の最も忠実な再現である。だから欧米人は黙ってみていられない。だから、聖火リレーへの妨害は、彼等の贖罪的な行為でもあるのだ。

 こういう問題を考えると暗くなる。でも、チビには関係ない。チビは何にも考えずに寝ているだけだ。

 曇天に何も考えず桜舞う

ラカンはこう読め!2008/04/09 23:26

 中国へ調査に行っていた間夢中になって読んだ本があった。スラヴォイ・ジジェクの『ラカンはこう読め!』である。ラカンの入門書だが、評判通り面白かった。

 難解で知られるラカンの『エクリ』を私は読み切れていない。途中で挫折した。それでラカンの引用をする人を、偉い!と思っていた。そういう私にとってこういう本が出てくれたことはとてもありがたい。これでラカンがわかるはずもないが、肝心なところは教えてもらった気がする。

 ジジェクの思想もはいっているだろうが、私が一番感心したのは、文化とは「ふりをする」ことなのだというところである。神がいる、というふりをする、信じている人を信じるふりをするでもいい。見て見ぬふりをする、でもいい。この「ふりをする」ことが文化というものなのだという視点はなかなか面白い。

 真実があるかどうか、ではなく、真実があると主張する人を信じるふりをする、あるいは見て見ぬふりをする、そうやって、実は、真実という普遍性は成立するのだということだ。あの世や神を幻想として生み出す人間の心理は二重三重に複雑である。幻想の構造は対称的であっても、その境界は「ふりをする」ことで実は覆い尽くされているというわけだ。そうかラカンはそういうことを言っているのか、ラカンをきちんと読んでいない私には、ジジェクの考えなのかラカンなのかはよく分からないが、一つ考える方法を手に入れたことは確かである。

 もうひとつ、現実から逃げるために夢があるのではない、夢から逃げるために現実があるのだ、という言葉。これもとてもよくわかった。たぶんこういうことだ。人間はその根底のところでおぞましいほどの亀裂を抱え込んでいる。夢は、その亀裂を象徴的ににあらわすものである。としたら、人間はそれに耐えられるはずもなく、その亀裂から遠ざかるために、生きるという行為の現実がある、ということだ。

 生きることが辛いのではない。生きないでいることの方が本当は辛いのである。その本当の辛さから逃げるために、現実を生きるというリアルな辛さがある、というのである。そのように考えたとき、われわれは文学に於いて違和とか不条理という辛さを象徴的にあらわすが、これは実は、本当の辛さの回避であって、そこに何らかの真実や価値があると思うのは間違っている、というのである。 

 そうか最初に光りありき、ではなく、最初におぞましい亀裂ありき、なのか。ラカンの思想は。その亀裂から逃れるべく、人間は、自分を不愉快にする内面というものを価値化し、苦痛に満ちた心をあたかも芸術的な真実のように大事にしてきたのだ。

 ラカンに入れ込んだら絶対に性格が暗くなるな、というのがこの入門書を読んだ感想である。ちなみに、私は感動したので、充分に性格が暗いと言うことがおわかりいただけたろうか。

            花曇り花の暗さを引きだせり

カーリング世代2008/04/12 02:03

 昨日から授業が始まる。私の授業は昨日が最初。受講人数はどちらかと言えば少ない。原因はいろいろあるが、一年生が少ないのは、たぶん、他の必修と重なっているためだろう。あと、シラバスの書き方にも原因があるからかも知れない。

 最近、忙しくて大人数の授業をやる気力がない。あまりいいことではないが、少なければ、じっくりと話ができそうな気もする。ただ、後期は教養教育の授業がある。こっちは多いかも知れない。

 私は学科長として、9名以下の受講人数の科目を、開くのか開かないのか判断をしなくてはならない立場である。経営側は受講人数の少ない授業は閉講にしろ、と直接にいうわけではないが、圧力はかけてきている。かといって、その授業が閉講になれば、教員はその分のコマを失うわけで、非常勤の先生は即生活問題になる。そういう判断をしなくてはならないというのは、全く嫌な仕事である。

 受講人数が少ないのは、時間割の組み方の問題で、教員の責任でない場合もある。あるいは、学生数が少ないのに科目をたくさん用意したりすると起こることである。あまりに少ないのはやむを得ないにしても、だいたいは開く方向で判断している。ただ、来年からはそうならないように対策を立てなければならない。それがなかなかやっかいである。

 今日は、アジア民族文化学会の春の大会の案内を発送する作業。E君、K氏、大学院生が手伝いに来てくれたが、今日一日で終わらなかった。また月曜日に発送である。とても疲れる。

 E君は40代前半で、今年の四月から女子大の専任になったのだが、他の教員から君たちの世代はカーリング世代だといわれたそうである。どういう意味かというと、カーリングでは、滑らした丸い石の周りをみんなで箒でこすって滑りやすくしてやらないと石はすぐに止まってしまう。つまり、周囲が助けてやらないと何も出来ないだめな世代だと言うことらしい。なかなか言い得て妙である。E君もそういうところは確かにある。私が何度周りを箒で掃いてあげたことか。でも、そうやって、周囲に助けさせるのも才能である。ある意味では羨ましい世代である。

 帰って、明日の準備。明日は古代の学会のシンポジウムで発表である。まだ準備が出来ていない。が、そうは言ってられない。睡眠時間を削るしかない。ということで、もうやけくそでこれを書いています。

           春の夜夢を見ている犬を撫で

スピリチュアルカウンセリング2008/04/14 00:10

 昨日(土)は学会でのシンポジウムで私がパネラーであった。もう一人のパネラーのS氏は、宗教学でユタの研究者。最近あちこちの大学で、ギターを抱えて心の叫びをシャウトする授業をやっていて人気を博している。

 彼は沖縄のユタが、自分の身体の痛みを沖縄という空間や土地の痛みとして感受する例を紹介し、ユタにとって、この痛みを介した世界理解が現代社会の様々な諸問題をほぐしていく一つの大事な方法なのではないかと説く。例えば、戦争の痛みも自分の身体の痛みとして語るその語り方、あるいは基地の問題にしても、このように痛みを通して理解しようとする。そこには社会科学的な理屈はないし、イデオロギーもない。ある意味では個人の妄想による理解かも知れないが、しかし、この妄想は、アニミズム時代以来の積み重ねに基づいた文化でもある。それなりに人々の心の奥に届く力を持っているのである。

 つまり、政治的な問題も社会的な問題も、政治や経済という意識的な論理ではなく、人々の無意識の領域にいったん戻すようにしてそれを受け止め解きほぐす仕方を、排除すべきではないということだ。そこには、政治や社会の論理を特権的に振りかざす声高な声ではなく、人々の深い共感といったものへと戻しながら問題を一つ一つほぐしていこうということでもあろう。シャーマンが政治や平和運動にかかわることを、何とも危ういと思うだろうが、無意識(神)の声は、気の遠くなるような時間の中で鍛えられた知恵なのであって、そのように読み込めばいいのだ。

 私の発表は、笙野頼子の小説『金比羅』論。無意識とつながるような存在、つまりシャーマンを装うとする作家の矛盾に満ちた表現行為を、笙野頼子の「違和語り」として『金比羅』に見出すというものである。S氏と関わっていくところがあるとすれば、苦痛、ということであろうか。無意識の世界は至福ではない、人間が抱える根源的な苦痛に近づくことだ。これは「ラカンはこう読め!」でジジェクが言っていることでもある。とすれば、シャーマンは神懸かることで人間の根源的苦痛を引き受けるということだ。だから、シャーマンは、カウンセリングを行うことが出来る。

 最近スピリチュアルカウンセリングが流行っていて、シャーマン的資質を持つ者がカウンセラーになっている。それは、無意識の世界につながる体験が根源的苦痛にちかづくことだからで、この体験にクライアントを近づけることが言わばカウンセリングになるからだろう。

 キリスト教会の牧師によるカウンセリングは、キリストの磔を信者にイメージさせその苦痛を疑似体験させることで、現世の苦痛などたいしたことなどないことを感じさせるのだと聞いた。たぶんそれと似ている。むろん、その根源的な苦痛を体験させるということではない。根源的な苦痛に近づくことによって、一瞬、現世の苦痛というレベルとは違う次元に転移するだけであろうが、悩めるものにとってはそれだけでも充分に癒しなのである。

 現世とは、無意識が抱え込む根源的な苦痛を排除しあるいは隠し、快適な生活や社会のシステムを人為的に作り上げてきたその成果そのものである。だが、カウンセラーに相談に行くもの達は、その近代の文明が作り上げた現世に傷ついたもの達である。とすれば、人為的に作り上げた快適な社会に戻れというアドバイスは通用しない。その社会が快適でないことを知ってしまっているからだ。

 とすれば、真の快適な空間などあるはずもないが、人間はそれでも生きていけるものだという納得の仕方をさせるしかない。それは、誰でも自分ではどうにもならない大きな存在(無意識)にとらわれるている。その無意識の根源的な苦痛を感じれば、今の辛さなんてたいしたことはない、けっこう快適ではないかという文脈を背景に、個々のケースをアドバイスしていく。スピリチュアルカウンセラーの落としどころはたぶんそんなところだろうと思う。

 笙野頼子は、自分で自分にたぶんスピリチュアルカウンセリングをしながら、無意識の根源的な苦痛に近づきすぎてしまった作家なのだと思う。その意味で孤独であり、多少自虐的でないではない。『金比羅』を読んだとき、ああこれはドストエフスキーの『地下生活者の手記』だなと思ったが、それほど的は外していないと思う。

 今日(日曜)は、今度引っ越すマンションに行って、部屋の様々な箇所の寸法を測ってきた。また、リフォーム業者と打ち合わせをした。まだ正式なけいやくをしていないので、所有権はないが、いまのうちから準備をしておかないと引っ越しが出来ない。

 連休前に引っ越しをしようと予定をしていたが、リフォーム業者がとてもじゃないがそんなに早くは無理だという。それでどうやら引っ越しは5
月中旬になりそうだ。本の整理が出来ていないので少しほっとした。ただ、部屋の寸法を測ってみて、あまりに狭いので愕然とした。今の家の家具類はほとんどマンションの小さな部屋には入らないことがわかった。マンションに住むときは一戸建て仕様の家具は捨てて行かざるを得ないと聞いたが確かにその通りである。とにかく、金がかかることは確かである。どうなることやら。

          春の闇花はきっと自分を見てる

英語と中国語2008/04/15 23:56

 寒い日と温かい人が入れ替わりで体調はよくない。今日は今年度初めての会議。ここで僅少科目が問題になった。つまり、受講人数が少ない科目のことで、あまり少ないと当然閉講ということになるが、経営側からは閉講の圧力がかかり、教員の側からは受講者数が少なくてもひひらくべきだという意見が出る。間に立って苦労するのが、学部長や学科長である。私も苦労している。

 中国から来た学生で、留学生ではないが、日本語は達者なのに英語はならったことがないという学生がいる。実は今年度から全員外国語は英語必修ということに決まった。もちろんレベル別にクラス分けするが、英語を全く習ったことのない学生のレベルは想定していない。そういう日本人はいないはずだからである。

 中国人の学生は先生どうしたらいいと泣きついてきた。とても真面目な学生で、やる気があるので、こちらとしてもつい応援したくなる。それで、私と一緒に中学の英語を勉強することにした。私も英語を忘れているから丁度いい。私が英語の読み方や意味を教えるから、それを中国語にして教えて欲しいと頼んだ。つまり、私はついでに中国語の勉強をするというわけである。週一回昼休みに勉強することにした。

 宮澤賢治の「かしはばやしの夜」を読む。今月中にこの童話について文章を書かなきゃならない。歌合戦の童話である。歌の掛け合いを研究している身としてはなかなか面白い話である。どのように論じるかはこれから。

 5月の上代の大会が九州の福岡で開かれる。その予約をする。何とか安いホテルが取れた。飛行機のチケットもとる。五月は大変だ。連休が終わったら引っ越しがあり、アジア民族文化学会の大会があり、私も発表し、次の週には、奈良での研究会、次の週は九州での大会、土日は全部予定が入った。いつものことだが、やれやれである。

            春愁の風は寂しく歌いけり

好奇心2008/04/17 00:37

 今日から基礎ゼミナールの授業。教員みんなが苦労する授業である。講義でもないし演習というわけでもない。ただ、大学生になるための基本的なことを学んでもらうという授業である。そんなの自分で覚えろ!という時代ではないのである。

 まず自己紹介から。黒板に自分の名前を書いてもらって、一通りの自己紹介をして、この一週間の感想を最後に語ってもらった。授業が始まって一週間になる。90分の授業は長い、眠くなる、苦痛だ、という感想が多かった。確かに高校では60分の授業だったから、90分は長く感じるだろう。でも、面白ければ時間は気にならない。そういうものである。つまらない映画だと2時間は苦痛である。それと同じだ。

 ただ、大学の授業全部が面白いとは限らない。面白くないのはどうするのか。私が学生の時はそういう授業は原則として出なかった。ただ、でなくてはならない場合は、自分なりに勝手に興味を見つけて教員とは違う所を面白がりながら授業を受けていた。ただ、試験の時だけ、教員の意図を汲んで答案を書いた。授業に出ずに、試験だけ出てもAをもらえる場合もある、そういう幸福な時代でもあった。

 今はそんなことは許されない。私は自分の学生時代のことは棚に上げて、出席しない奴は落とす。たぶん教員はみんなそうだから、面白くない授業に出会った学生は可哀相だ。でも、それでも、そういう授業をどう面白がるのか、工夫次第である。先生は面白く無くても知識それ自体は面白いはずだ。そう考えることである。そのためには好奇心をたくさん持つことだ。

 結局、好奇心だと思う。好奇心がないと、面白くないことを全部自分以外のところに原因を求めてしまう。それで納得して、努力することを止めてしまう。

 願わくば好奇心を持って欲しい。どんなにつまんない先生の授業だって、それなりに面白くなるよ、と言いたい。ただ、私の授業は、そんなに無理しなくてもけっこう面白いはずだけどね。

            泣いた子はあっという間に巣立ちたる