僧と妄想2008/04/05 00:08

ブータンの話の続きであるが、I氏の話は面白く、発表の打ち合わせなのに、2時間近くブータンの話題で盛り上がった。

 ブータンはチベットと同じく仏教の国であり、あちこちにお寺がある。多くの家では子どもが何人かいるとそのうちの一人は僧になするために寺に預ける。こういう習慣はよく知られているが、I氏によると、お寺というのは、この地方における人口調節機能の役割なのだという。

 ブータンでは、子どもや幼児の死亡率が高いので、子どもをたくさん産む。子ども重要な労働力になるからである。たくさん産んでも何人かは死んでしまうから、丁度いい数が残る。だが、なかには、全員が育ってしまう場合がある。そういう子だくさんの家では、今度は子どもを養うことが出来ない。それで、お寺に預けるのだという。

 一人の子どもを預けたはいいが、その後自分の家の子どもが病で死んでしまったらどうするか。お寺から家に戻すのだということだ。なるほど、確かにお寺は地域の人口調節機能と言う役割を果たしているわけだ。

 僧侶はどこでもそうだが、禁欲的なものばかりではない。ブータンの僧侶だって例外ではなく、同性愛を意味する言葉はちゃんとあるのだという。そして、けっこう欲望を抑えられなくなり、僧をやめるものも多いそうだ。僧を辞めて何をするのかというと、これがタクシーの運転手なのだそうだ。ブータンのタクシーの運転手の半分はもと僧侶だと話していた。

 外側から見てはこういうことはなかなか見えてこないが、さすがに現地に精通している人ならではの話であった。

 ところで、私は古代の学会シンポジウムのパネラーになっているので、その準備をしなくてはならないのだが、なかなか出来ない。どうも中国から帰ってきてから、疲れやすくてなかなか本が読めないのである。自分ではそんなに辛い旅ではなかったのだが、身体はそこそこつらかったようだ。やはり歳である。

 笙野頼子論を少し展開して、天理教の中山みき「おふでさき」などを比較しながら、神話における私性といったものについて論じられたらいいと思っている。神話は公的な言説だが、シャーマンの神懸かりの言葉は、必ずしも公的とは言えない。が、公的ではないとも言えない。妄想と言ってしまうと、そこには公も私もないが、その妄想の言葉でも、当事者のみならず他の人たちにとって意味あものであるなら、そこには私から公へという分離がある。実は、その分離の仕方そのものが文体でもあるのだ。だから、文体論という展開になるが、それは当然で、笙野頼子は、徹底して文体にこだわった作家なのである。文体のある意味での冒険によって、私性と公とを区別する秩序を破壊しながら、二つを同在させてしまおうというのが、笙野頼子の方法なのである。資料は、小説の文体だけ。だから、話は抽象的になる。いつもそうであるが。

         妄想が四月の街に潜みたり

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