ラカンはこう読め!2008/04/09 23:26

 中国へ調査に行っていた間夢中になって読んだ本があった。スラヴォイ・ジジェクの『ラカンはこう読め!』である。ラカンの入門書だが、評判通り面白かった。

 難解で知られるラカンの『エクリ』を私は読み切れていない。途中で挫折した。それでラカンの引用をする人を、偉い!と思っていた。そういう私にとってこういう本が出てくれたことはとてもありがたい。これでラカンがわかるはずもないが、肝心なところは教えてもらった気がする。

 ジジェクの思想もはいっているだろうが、私が一番感心したのは、文化とは「ふりをする」ことなのだというところである。神がいる、というふりをする、信じている人を信じるふりをするでもいい。見て見ぬふりをする、でもいい。この「ふりをする」ことが文化というものなのだという視点はなかなか面白い。

 真実があるかどうか、ではなく、真実があると主張する人を信じるふりをする、あるいは見て見ぬふりをする、そうやって、実は、真実という普遍性は成立するのだということだ。あの世や神を幻想として生み出す人間の心理は二重三重に複雑である。幻想の構造は対称的であっても、その境界は「ふりをする」ことで実は覆い尽くされているというわけだ。そうかラカンはそういうことを言っているのか、ラカンをきちんと読んでいない私には、ジジェクの考えなのかラカンなのかはよく分からないが、一つ考える方法を手に入れたことは確かである。

 もうひとつ、現実から逃げるために夢があるのではない、夢から逃げるために現実があるのだ、という言葉。これもとてもよくわかった。たぶんこういうことだ。人間はその根底のところでおぞましいほどの亀裂を抱え込んでいる。夢は、その亀裂を象徴的ににあらわすものである。としたら、人間はそれに耐えられるはずもなく、その亀裂から遠ざかるために、生きるという行為の現実がある、ということだ。

 生きることが辛いのではない。生きないでいることの方が本当は辛いのである。その本当の辛さから逃げるために、現実を生きるというリアルな辛さがある、というのである。そのように考えたとき、われわれは文学に於いて違和とか不条理という辛さを象徴的にあらわすが、これは実は、本当の辛さの回避であって、そこに何らかの真実や価値があると思うのは間違っている、というのである。 

 そうか最初に光りありき、ではなく、最初におぞましい亀裂ありき、なのか。ラカンの思想は。その亀裂から逃れるべく、人間は、自分を不愉快にする内面というものを価値化し、苦痛に満ちた心をあたかも芸術的な真実のように大事にしてきたのだ。

 ラカンに入れ込んだら絶対に性格が暗くなるな、というのがこの入門書を読んだ感想である。ちなみに、私は感動したので、充分に性格が暗いと言うことがおわかりいただけたろうか。

            花曇り花の暗さを引きだせり