危機と文化2008/04/04 00:21

 4月になって暗い話題ばかりだ。テレビでは日本の凋落とか、4月クライシスとか、穏やかでない特集ばかりである。ほんとに危機なのかどうか、むしろ、もっと危機的な世界のいろんな国とようやく肩を並べたということだろう。

 現在の危機は、グローバリズムの中での資本主義の論理が、ある意味では非情に日本に働いた一つの結果だと言えるが、同じグローバリズムの競争原理にさらされているヨーロッパでは貧しい移民が暴動を起こすほどに危機的であることを忘れてはいけないだろう。

 危機的といっても、世界の中ではいろいろレベル差がある。多くの人間が飢餓に瀕する危機もあれば、とりあえず衣食住はあるが仕事がないという程度の危機もある。アフリカの絶望的な危機に比べれば、日本の危機は、今までの豊かさとの比較の上での危機であって、まだまだたいしたことはないという見方がある。が、本当の問題は、危機という認識自体にわれわれが呪縛されているということではないか。

 今日、ブータンの歌文化の研究者といろいろ話をした。こんどのアジア民族文化学会で発表をしてもらう。ブータンは経済力はないが幸福度は世界でトップだとテレビで報道されているが、あれは嘘だという。ブータンもまたグローバリズムの怪物に侵略されつつあるらしい。

 ブータンの歌は「ツォンマ」と言うが、とにかく生活のいろんな場面で、むろん恋愛だけてなく、歌の掛け合いが機能していて、それは重要なコミュニケーションの手段になっているという。そういう時間をかけて作られてきた文化を大事にしないと不幸になるんじゃないか、という点で意見が一致した。

 文化という定義は難しいが、希望などという近代的な目標設定などなくても、充分にそれほど危機をかんじることなく生きられるシステムを用意するのがある意味では文化ではないだろうか。が、それを失ったとき、われわれはちょっとした経済的な動きですぐに落ち込み、危機だ!と警鐘を発せざるを得なくなる。

 社会のシステムが、経済力を失った者をいろんな意味で許容する力を持たなくなったということである。だから、すぐに危機だと言いたくなる。社会の許容力がないから、不安なのである。それは、何らかの大事な文化を失ったということでもあるだろう。

 失業してもワーキングプアでも、ぜいたく言わなきゃなんとかなるさ、というような、社会の許容力の基盤となるような文化の力をたぶんわれわれは失っている。例えば私が研究している歌文化なども、そういう文化の一つだろうと思っている。

       危機的日本春の風吹き抜く