私の仏教入門2020/07/20 12:40

 以下の文章は歌人佐藤通雅が発行する『路上』(147号、2020年7月)に寄稿した文章です。テーマは自由と言われていたので、最近の関心事である仏教について書いてみました。「私の仏教入門」と題した文です。

私の仏教入門

 最近、癌になったということもあって死を身近に考えるようになり、仏教関係の本を読み始めた。宗教は死の受容の処方でもあるから、仏教における死受容の処方を勉強しようと思ったのである。従って、今の私の最大の関心事は仏教である。原稿依頼があって何を書くべきか迷ったのだが、私にとっての今のリアルな問題を書くべきと考え、私の仏教入門について書かせてもらうことにした。
 多くの仏教入門書などを渉猟し、行き着いたのは道元の「正法眼蔵」であった。難解なこの書を読み(現代語訳だが)、解説書などを通して、禅の一端に触れることは出来たように思う。
 「正法眼蔵」の解説として、感銘を受けたのは曹洞宗の僧侶で哲学者といっていいのであろう南直哉の本である。南直哉の『「正法眼蔵」を読む』(講談社選書メチエ)、『超越と実存』(新潮社)はおすすめである。多くの仏教入門書を読んだが、私は南直哉の仏教の捉え方が一番腑に落ちた。まず彼の仏教の捉え方を紹介する。

  私はそもそも物心のつきはじめたところから、自分がどうして自分以外の人間ではな く、なぜ自分であり続けなければならないのか、不思議で仕方がなかった。それに理由 はない。そうさせられているにすぎず、そうせざるをえないにすぎない……仏教だけが、 私に真っ向からそう断言したのである。「無常」「無我」、そして、「縁起」という教え が私にまず開いて見せたのは、自己が存在からではなく不在から始まるという、驚くべ き光景だった。(『「正法眼蔵」を読む』)

  自己の存在が困難で苦しみであるということは、ひょっとすると他の宗教や思想でも 言うかもしれない。しかし、仏教の教説の異常さは、「自己という苦しみ」を解決する のに、「苦しみ」を解消するのではなく、「自己」を消去しにかかることである。これ ほど徹底的かつ残酷な解決方法はない。(同)

 南直哉の言説のすごいところは、宗教者にもかかわらず宗教が本来持つ超越的な言説を拒否するところであるが、それがよく現れている言い方である。多くの宗教は死への不安を超越的な世界、救済者としての神しくは天国という物語を作ることで解消しようとするが、南は、仏教は不安を感じる自己を消去することで解決しようとする宗教なのだと言う。その自己の消去とは、『正法眼蔵』「現成公案」に言う「仏道をならうというは、自己をならう也。自己をならうというは、自己をわするるなり」ということになろう。
 南はさらに仏教の「自己」とは「自己を消去する自己」だと言う。そしてそれはこの世では不可能だと説く。何故なら自己を消そうとする自己は消せないからだ。その絶対矛盾、不可能さを受け入れつつ消去する行為を続けることが修行であり、宗教者であることなのだと言う。それは、道元の言う「只管打座」、すなわちひたすら坐禅を実践することである。彼は次のように述べる。
 
  存在と不在、言語と言語以前、自己と非自己、その間を往還する運動としての坐禅は、 現世において「自己を消去する自己」の主動力となる。「では、どうする?」は止まな い問い、止んではいけない問いなのだ。その問いが止んだとき、仏教はそこで終わる。                            (同)
 
 私が南直哉の説く仏教に惹かれるのは、あまり宗教らしくないからだ。彼の説く仏教は宗教ではなく哲学に近い。哲学的でないのは、「自己を消去する自己」を問い続けることは、現世を超脱しようとする意思に貫かれた行為そのものであって、その行為の目指すものを真理のような概念として設定しないからだ。ただひたすら「自己をわするる」ことを実践するだけである。そこには自己をきっと消去できるにちがいないという「信」があるだろう。「信」とは賭けであって、宝くじが当たるに違いないと思って買う行為とそれほど違わない。実は宗教の本質とはその賭けにあるのだと思う。哲学が論理の道筋を明確にして超越的な真理に到ろうとするのだとすれば、宗教は「信」すなわち賭けによって真理もしくは神に到ろうとする。

 ただ、南の説く「信」はその賭けのリスクをほとんどゼロにしている。つまり、宝くじを買うのに、当たっても当たらなくてもどうでもいい、大事なのは買うという行為を続けることで、そこに「宝」を得ることの本当の意味があるのだ、というように説くのである。賭けるが当たり外れなどどうでもいい賭け続けるだけだ、というこの姿勢は、宗教と言えるかどうか微妙なところだ。宗教入門の最大のハードルは信じるか信じないかという問いを突きつけられたらどうしよう、と思うことにある。だから、私のような理屈で生きる者には近づきにくいのだが、南の説く仏教は、いきなり「信」を問われることがないし「信」がなくてもいいような気がするので入って行きやすいのだ。
 念仏を唱えればあの世で浄土に行けるとする浄土宗のような宗教は、「信」のリスク、賭けに外れるリスクを前提にしながら、宝くじに当たることを確信していくような宗教であろう。あの世がどういうものかあるのかないのか誰も知らない。が、賭けであることを承知であの世への極楽往生を「信」じきって、自己を賭けきることが宗教の醍醐味なのだと思う。私には出来ないが、その醍醐味は理解出来る。
 「法華経」という経典がある。仏(如来)が悟りを求める衆生を導いていく豪華絢爛な物語を繰り返し描く大乗仏教の代表的経典である。ところが、南は「法華経」をあれはだめだと言う。南がこの経典を受け入れない理由はよく分かる。南は他力によって超越世界に安易に到るような物語を認めないからだ。
 私は、南直哉の説く宗教とも哲学とも言える仏教の教えに共感し、学ぼうとしているのだが、実は「法華経」は好きである。日本の仏教が「法華経」を重んじてきた理由も分かる気がする。道元も「法華経」の影響を受けていると言われている。「法華経」は徹底して「信」の成就を描く物語なのだ。神話であり、壮大な叙事の文学といってもいい。ファンタジーとして読めば「法華経」はとても面白い。日本の仏教者も、「信」のその先にある悟りへの行程を夢見させてくれるファンタジーとして読んでいたのではないか。
 立松和平が「法華経」の現代語訳を出している(『はじめて読む法華経28品』(佼成出版)。その解説で「無常はたえず失われていくのではなく、苦も時の流れの中で消滅していくのであって、生きる喜びの中に解放されるはずなのだ。こうして虚無を振り払い、自分も他者も救う菩薩の道へと導こうとして道を示すのが、ドラマチックな物語としての法華経なのである」と述べている。仏教はこの世を無常であり苦であると説くつらいイメージを持つ宗教だが、「法華経」は「生きる喜び」や「他者も救う菩薩への道」を示してくれるという立松の解説によって、何故この経典がひろく読まれてきたかよくわかった。「法華経」は「信」の世界を苦ではなく喜びに満ちあふれた世界として描いたからなのだ。宮沢賢治も「法華経」を信奉したが、彼も「法華経」の影響を受け「生きる喜び」を求め「他者を救う菩薩への道」を実践した仏教徒であった。
 さて、仏教の基本的な教えとは、生老病死に悩むのは、悩む「私」があると思うからで「私」がないならば悩むこともない。だから「私」から脱却せよ、ということになる。道元の言う「自己をわするる」ということである。自分の死がそう遠いことではないと思っている私は、南直哉の教えなどを通して、いかにこの「私」を忘れるかだ、と結論を得た。とすれば、「私」を忘れる努力をすればいい。その努力として禅宗は坐禅をすすめるので、私も毎朝坐禅を短い時間だが実践している。が、なかなか私を忘れる境地を得るのは難しい。哲学者永井均は「私」とは超自然的存在である独在的存在だとする。この世界そのものを最初にひらく存在であって、他者との関係によって存在する様な存在ではないという。この世界そのものが「私」として存在しているということだ(『存在と時間哲学探究Ⅰ』文藝春秋)。つまり理論的には「私」は消去できないのだ。それでも自己の消去の実践を続けるのが禅ということになるが、私にはなかなかハードルが高い。

 とにかく、自分に向き合わず自分を忘れる努力だけはしよう、というのが、仏教を学んで得た心の落ち着け方である。実は私にとって理想とする人がいる。樹木希林である。樹木希林は癌で亡くなったが、亡くなるまでの生き方は見事だった。癌を受け入れ淡々と生きていた。自ら仏教徒と語っている。自己を忘れるところまでいかなくても、死に直面してあのように穏やかに生きられたらと思うのである。

指折りて余命数える梅雨晴間

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