一週間が終わる…2008/06/01 01:11

 ようやく一週間が終わった。今週は月曜から土曜(今日)まで毎日出校である。金曜と土曜の午前中は、高校教員への説明会。そして、今日の午後は古代の会という研究会。

 古代の会は、白族の古い詩文と、詩経の勉強会である。白族の詩文は、石碑に刻まれたもので、漢語で書かれているが、白語を漢語で記した文字がある。それは訓であったり、音だけを利用したりと、かつて和語を漢字で表したときの方法がだいたいあてはまる。その意味でとても面白い。中国側の訳文や資料がかなりあるので、若手がこれからそれらの資料を読んでいく。私は、ただ参加して彼等の研究からおおくのものを得たいと思う。都合のいい立場だが、だいぶ疲れてきたので、許してくれるだろう。

 また、詩経の国風を、Tさんが調べて発表してくれている。中国や日本の注釈を比較し、さらには少数民族の歌文化なども用いながら、どう読めばいいのか、検討しようというものだ。K氏は、この研究会の成果は20年後に、その時生きていて一番元気な人がまとめればいい。そのくらいの気持ちでやればいいと言う。たぶん私は生きていないだろう。生きていたとしても、元気はないと思う。

 さすがに疲れが溜まって、今日の研究会はしんどかった。帰り、すずらん通りの居酒屋で飲み会。引っ越しをして一番いいと思うのは、帰りが楽なことだ。夜遅く、川越に帰らなくてすむのが助かる。

 明日は知りあいの歌人の朗読会に行く予定であったが、さすがにその元気がなくなった。引っ越しの整理がまだすんでいるわけではないので、引っ越しの整理と休養だ。

       六月や二十年後をふと思う

新ニッポン人2008/06/03 00:02

 今日の「卒業セミナー」は多和田葉子の「犬婿入り」の解説だが、上手くいかなかった。こういう授業をしていちゃいかんと反省。どうもしゃべりすぎで、こういうときは学生の反応をあまり見ていない。実は「女性作家事典」というのがあって、その多和田葉子の特集本に、私が「犬婿入り」の解説を書いている。そのタイトルは「犬婿入りの授業風景」というもので、授業で「犬婿入り」の解説をしていたその要点を書いたものだ。

 せっかくだからと、その本の解説をコピーして配り、その解説のとおりにやろうとしたら、どうも具合が悪い。新鮮さがないのである。反応もいまいちで、やはり、一つ一つ興味を引き出す努力をしながら、解説をしていかないとだめだということだ。相手の反応と関係なくこちらのスケジュールで授業をやるとだいたい失敗する。

 今日帰ったら、ビールが1ケース届いていた。送り主は知らない人。が、実は、この人ラグビーの元日本代表で、けっこう有名な人。何でこの人から、と思ったが、すぐに奥さんの姪っ子が送ったことがわかった。つまり、彼女は酒があまり飲めないので、彼女のところへ本来なら送られるはずのビールを、私のところに送るようにと手配したらしい。彼も気の毒に。

 今日の朝日新聞の朝刊に初年次教育についての特集記事があった。私のところでも、基礎ゼミナールという初年次教育の授業を全学的にやっている。必修科目である。しかも私がその責任者である。ということでこの記事を読まないわけにはいかなかった。今年は来年度に向けて基礎ゼミナールの共通テキストを作ろうと考えている。これも私が責任者だ。先が思いやられる。

 昨日久米宏司会で「新ニッポン人」という特集をやっていた。これがけこう面白かった。20代の日本人は、われわれが持っているような消費欲求を持っていない。物欲があまりなく、将来の不安を若いときから抱え、貯金をし、金がかかることはあまりしない。しかし、ボランティアや環境問題には関心が強い。

 割合私と似ているなあというのが感想。むろん、今の私にだ。若いときの私はたぶんそうではなかった。今の私は、すでに齢を重ね、まあ消費欲望なんて疲れるだけだよ、というくにらいに悟りを開いているから、そんなに消費欲望はない。いや、そうじゃないだろう、マンション買っただろうと言われると何にも言えないが。ただ、これは消費欲望ではなくて、快適な老後を過ごしたいという切実な欲求である。

 結局、新ニッポン人はそれなりに知識人になってきた、ということである。消費欲望という生の本能に近い欲望を、理性的な判断でコントロールできるようになった、ということだ。若いときのがむしゃらな欲望は、未知の未来に開かれた自分を夢見ることでもあるが、その夢も、かなえられないときのリスクを考えて抑える、という自己抑制のきいた生き方になってきている。そういうがむしゃらさよりも、ボランティアや環境問題のような身近なところて公的な生き方を実現すれば、それなりの充実感は得られる。競争して成功することで得られる充実感に価値を見出さない、ということだ。当然、欲望に苦しみながら俺は成功したんだと思う大人は、小せえ生き方だと今の若者の生き方を嘆くだろう。

 消費社会が行き着けば、こういう若者を生み出すことは当然である。これは日本だけではなく、消費資本主義が成熟していった先進国における共通な現象である。成熟した消費社会では競争はゲームであり、人生をかける価値を生み出すものではない。また、勝ち組、負け組と呼ばれるような擬似的階層社会を生みだすことで、未知への想像力をわたしたちから奪う。

 地球温暖化という未知への不安を解消する、圧倒的な未来を描く想像力をたぶんだれも持っていないし描けない。そう思いこんでいるのがわたしたちの現在である。結局、新ニッポン人とは、この私たちの作り上げてしまった現在を映し出している、ということなのだ。

   ゲームの如きこの世蚯蚓は生きる

アンケートは嫌いだ2008/06/05 00:26

 私の勤め先ではウェブを使ったアンケート調査というのをやっていて、学校への満足度調査結果が今日届いた。私の学科の満足度はけっこう高くて、かなり満足、ほぼ満足合わせると80パーセントを超える。最初の調査にしては、これは悪くない数字だが、逆に、次回の調査からこの数値を下回ったら、何をやっているのかということになる。その意味では厳しい数値である。いきなり最初からハードルを高くしてしまったのである。

 質問項目の中に、あなたは人に聞かれたとき自分の所属している大学名を言えますか、というのがある。嬉しいことに、堂々と言える、言えるという答えがこれもやはり80パーセントを超えた。私のところは短大だが、それでも、大学名を言えると答えることが出来るのは、いいところで学んでいるんだという意識があるからだろう。

 私は数年前から「ハードな短大宣言」というキャッチコピーを作って、レベルは高いよ、というイメージを積極的に作ってきた。それが功を奏してきたということだと思う。マニフェストを作って学習目標もやや高めに設定して、勉強する学科のイメージを作ってきた。短大は凋落傾向にあるのに、その流れにあえて逆行することを始めたのは、短大の需要はあるとの確信と、それなら、短大に入学することに胸を張れるような環境とイメージを作らなければ、という思いからである。

 特に、四大の学生と一緒のキャンパスにいると、とかく短大生は~と言われがちで、自信を無くしがちな短大生を元気にするには、こういう勉強をしているんだ、という誇りのようなものを持ってもらうことである。私の属する学科を選んだ理由にカリキュラムをあげた学生が少なからずいるのも心強い。何を勉強しているのか、という自覚がそこにはあるからである。

 とりあえず学生の学校への満足度はいいとして、今度は、教員への満足度ということになるが、これがなかなか難しい。教員全部が全部、私の思惑通りに動いてくれているとは限らないからである。マニフェストを作り、学生の学習意識を高めれば、当然教員に対する要求が高くなる。それに対応出来ない教員がいれば、それへの不満は、今までのようなものとは訳が違う。当然、学校側も学生の不満を聞く窓口をウエブ上に設けている。学生は、教員や授業のレベルが低いとクレームをつけやすくなる。現にそういうクレームが来ていて、私はその対応に追われているのである。

 言っておくが私はこういう教育環境を理想的とも思っていないし、歓迎しているわけではない。ただ、休講をしたほうが学生から喜ばれるとかいうような牧歌的な時代を生きていない以上、これは受けいれなければならない変化である。そしてこの変化にはそれなりの合理性がある。一部の特権的な者だけが受けるという教育ではなくなったからこそ、教育もまた人々が引き受けなければならない経済行動と同じように、効率性や競争原理にさらされるのである。

 教育も人と人との関係の上に成り立つ以上、あまり競争原理や効率性だけではという考えももっともだが、たとえどんなに厳しい利益追求の企業であっても、その組織では人と人との情のつながりはあるはずであり、人はそういう風にして、どんな環境でも、人間の持つ情や遊び心や余分な労力などを見出していくものである。それが見出せない企業組織は潰れる、というのもまた、人は経済的に生きると同じように真実である。そう考えれば、教師と学生との関係が昔のような緩いものでなくなつたからといって、人と人との関係そのものが変質してまうわけではない。

 もし、そうだとすれば、つまり、教員が学生との関係を昔のように持てなくなったとするなら、それは、教員も人並みに働かなくなければならなくなってきて余裕が無くなっている、ということであろう。だったら、教員は自分を鍛えて余裕を持つしかないのである。

 私はアンケートが嫌いである。アンケートをとらなくても普段から学生と接していれば、アンケートの数値はだいたいわかる。アンケートをとるのは、学生の気持ちを知ると言うことよりも、学校という企業が生き延びるための施策を導き出す計測こそが目的である。むろん、学生を大事にするという思想があればそのアンケートはいかされるが、その思想がなければ、学生はただの消費者のようなもので、本当の意味で大事にされるわけではない。アンケートの指標をあげるために学生が存在する、ということは大いにあり得るのである。

 アンケートをとらなければ、わたしたちの努力がどのように成果を上げたかという結果をみんなが共有できない。が、一度アンケートの計測の数値を得てしまうと、この数値に支配される。アンケートというのはなかなかやっかいである。

入梅や人の心を測りけり

あわいの文化2008/06/07 00:08

 昨日(木)はかなりハードな一日であった。民俗文化の授業は「なまはげ」のビデオを見る。このビデオいつ見てもなまはげに脅えて泣き出す5歳の女の子がとても可愛い。それにしても、人間とは不思議で、人が仮面を被っているというのがわかっていて、仮面に脅える。仮面を神として遇す。仮面を被っているものも、自分が仮面の神になったと思いこむ。

 こういう装い文化は、とても普遍的であることがわかる。例えば演技というのにウソとかホントとかいう区別はない。ウソでもありホントでもある。ウソでもないしホントでもない、でもいいだろう。歌垣の恋の歌は、演技だと考えた方がいい。だからホントの恋いではない、と言うと間違いなのである。ウソでもない。ウソでもホントでもある。

 万葉の恋の歌もまた同じだろう。恋の贈答歌にホントの恋を探すのは徒労なのである。演技は文化である。文体であるといってもいい。恋の歌はこの文体によって演じられている。それはウソでもありホントでもある。あるいはウソでもないしホントでもない。

 いわば、‘あわい’の表象なのだ。「あわい」文化と言ってもいい。このあわいが、神と人との対峙を生み出し、男女の恋愛の対峙を生み出すのである。仮面は、その意味で「あわい」の表象そのものである。

 一神教が仮面を嫌うのは、あわいそのものを嫌うからだ。神と人との間にあわいを認めないのである。

 昼から、課外講座の万葉論、巻1から読んでいるのだが、今日は歌垣のビデオを見せて、万葉の背景に歌垣文化があることを解説。

 終わってから、二つの会議。一つは、FD活動を教員同士でやろうよということの話し合い。例えばお互い授業参観するとか、授業をビデオにとって公開するとか、そうすれば、お互いいろんな知恵を出し合うことが可能になって、全体の授業のレベルがあがるのでは、という提案である。が、無理があるのでは、という意見が出て、あまりやりたいという雰囲気ではない。まだ時期尚早のようだ。でも、こういう話し合いが持てただけで一歩前進である。
 
 夜は、飲み会だが、癌で亡くなったI君の墓参りや偲ぶ会の日取りを決めるというので参加する。いつも疲れ果てて顔を出さない時が多いのだ。期日は、7月6日で、学会のシンポジウムと重なる。さてどうしたものか。私が会場の設定や準備をしなくてはならないので、こっちを優先せざるを得ない。I君は私個人で偲ぶしかない。

 今日は(金)は久しぶりに山小屋へ。新居に入りきらない荷物を山小屋へ運ぶのが目的。天気が良く、あったかい一日であったが、夜は寒い。ストーブを焚く。明日は、シンポジウムで学校へ。

五月闇亡者数える鬼の声

ペースメーカー2008/06/09 01:29

 土曜のシンポジウムはなかなか異色の組み合わせで面白かった。テーマは平田篤胤と南方熊楠。普通、平田篤胤と並べるなら、折口信夫か柳田国男を持ってくるのが普通だが、熊楠を持ってきたところがミソ。

 共通するのは、どちらもトンデル人達であるということか。熊楠は博物学的な思考法を駆使する。体系的に整序するのではなく何でもマトリクスにしてしまう。その意味では民俗学的方法ではあるが、それを最後にまとめていく秩序的思考を持たない。こういうのは最近では脱構築と言われているのだが、明治のこの時期に、こういう思考法が出現するのは異例なのか、それとも、ある知の必然なのか、興味のあるところだ。

 篤胤は、むしろ体系的に神話を語ろうとするが、その体系そのものがトンデモ系本のぎりぎりの危うさに近づいている。そこが面白い。両者とも知に対する貪欲さという点では共通するのだろうと思う。篤胤あたりから出発した近代が、熊楠、折口、柳田の時代に完結するのではないかとは、熊楠を論じるパネラー安藤氏の言。もう一人のパネラー山下氏は、篤胤は、このトンデモ系の神話を語るところで終わってしまうと言う。それ以降の篤胤はナショナリズム的な言説にとらわれていくのだという。そして、このトンデモ系的篤胤は、潜在し、熊楠、折口、柳田のところで浮かび上がってくるのではという。それぞれ、興味深い指摘である。

 シンポジウムが終わって飲み会となり、私は、梓の最終にのって茅野へ。山小屋に着いたのは夜の12時頃であった。

 日曜日の午後、恩師である蓼科のN先生の元を訪れる。夫君のN氏は、心臓が悪くペースメーカーをいれる手術をしたということで、心配をしていた。冬は伊豆の方に住んで、五月頃に蓼科に戻られるのだが、今年は五月になっても来ていない。どうしたのだろうかと心配していたが、私の方は忙しくて連絡も余り出来ずにいた。戻ってきたという連絡が入り訪れることにしたのである。

 旦那さんは至って元気。ペースメーカーが動いている限り、心臓は動くので俺は生きなきゃならんのだ、と言う。力仕事などはできなくなったが、山歩きは大丈夫なのであっちこっち歩き回っているとのこと。お墨付きの障害者になったそうで、これで奥さんであるN先生と二人で旅行する時は、旅費は一人分でいいのだそうだ。つまり、付き添いの一人はただになるということだ。ところが、俺が一人で旅行する時には割引はない。一人で旅行できるから割引はないということらしい。変な話だと言っていた。高速料金も半額になるのだと言っていた。

 今のペースメーカーはよく出来ていて、携帯の電波で狂わされることはほとんど無いそうである。胸に埋め込み、電線を静脈を通して心臓に伸ばし、先端の電極で心臓に刺激を与えるらしい。ペースメーカーにはチップがあって、心拍数が記録されるので、どういう運動をしたのか後で把握できるらしい。心拍の間隔も制御できるらしい。例えば、起きているときと寝ている時とは心拍数を変えたり、運動する人は心拍数を上げるようにもできるらしい。いろいろと勉強になった。

 先生の家を出て帰路につく。中央高速は渋滞。何とか家に着く。ここに越してきてから初めての山小屋往復である。

蝸牛宇宙の際で思案せり

情のない街2008/06/11 00:58

 どうも何が多忙なのかよくわからないのだがとにかく多忙なのだ。心配なのは、授業の準備がうまく出来ないこと。新しい家に移って、資料がなかなか見つからないのと、時間がないのと、それから、今年から新しい科目があるので、やり方がまだうまく掴めてないということもある。私はおそらく定年で退職するまで、この授業のやり方で悩むのだろうなと思う。

 短大生にはとても知的好奇心のある学生から、この授業自分の将来にとってどんな意味があるの?と、最初から興味を抱いてくれないリアリズムの学生まで幅が広い。文学や文化論の授業って、将来に役立つかどうかなんて考えない方がいいよ、と言ってはだめで、そんなことを考え始める前に、この授業面白いじゃんと思わせなければ負けである。今のところ私は負けてばかりである。

 「殺すのなら誰でも良かった症候群」はまだまだあちこちで現れるようだ。原因はとても分かりやすい。この症候群の当事者には、普通の人と人との関係が成立していないということだからだ。今度の秋葉原での容疑者も、携帯の掲示板で人と関係が結べない自分の情けなさを自虐的なまでに吐露している。

 その原因は格差社会とか、家庭の関係のあり方とかいろいろあるだろう。私の最近の関心で言えば「情」というものがそこに見えてないことに注目する。他者がいてこそ情は成立するが、相手が自分であったり、アニメの主人公であったり、異界の神であったりする場合、そういう他者では情は成立しない。

 秋葉原という街は、その意味では、情の成立しない他者ばかりの街である。が、若者がそこに出向くのは、たぶん、見かけは情が簡単に成立するように見えるからだ。ご主人様と言って話しかけてくれるメイドの情を、とても大切なものとして慈しむ寂しさがそこにはある。

 情愛という古典的な言葉がとても重要であるように思える。今度の症候群の容疑者も、そういう言葉とほとんど無関係に生きてきたのではないか、と思ってしまう。彼の掲示板の言葉に、守らなければならないものがいたら…、というのがあった。それがあれば情は成立したのだろうに。情がなければ人は簡単にもう失うものはなにもないと自分を追い詰める。何ともやりきれないことである。他人を殺すことによってしか自分を殺せないのは、関係の病から起こっているからである。自分だけさようならと潔くはなれないのだ。他人のために一度でも生きた記憶があれば、たぶん自分だけさようならとなったろうにと思う。

         情のない街六月の街哀れ

みんなで読書会2008/06/12 23:15

 ここ数日わが家、といってもマンションの一室だが、に小さなヤモリが出没している。夜になると出てくる。なかなかかわいらしい。今のところチビは気付いていない。気付いたら大変である。それから、わがマンションには廊下に蚊を電気ショックで退治する誘蛾灯がある。ときどきパチッという音がする。蚊が電気で焼かれる音である。緑の多い環境なのだが、ヤモリもいれば蚊もいるということだ。

 チビはようやく新しい環境に慣れてきたようだ。ソファーを寝床にしてくつろぎ始めた。

 今日は読書委員の学生と「みんなで読書会」を開く。取り上げたのは東野圭吾の『手紙』である。読んでみたが、暗い内容であった。弟の進学費用のために強盗殺人を犯した兄と、その兄のために人生を狂わされ差別され続ける弟の葛藤、というのがテーマである。

 学生の評判はあまり良くない。テーマが重たいというのがあったが、なによりも主人公の弟に共感を感じ取れない、というのが大きいようだ。兄は強盗を除けばとても好い人で、刑務所から弟に何度も手紙を書く。が、弟はそれを迷惑に思う。兄のことを知られ、職を失うということが続くからである。

 弟は可哀相だが、実は、上昇志向があって、金持ちの令嬢と恋愛関係になるが最後は打算で付き合うようになるし、なかなか俗物的な面を見せる。最初は冷たくしていた女性と結婚し家族が出来ると、やり直すために兄と絶縁を決意する。が、兄の最後の手紙を読み、バンド仲間と慰問という形で兄に会いにいくところで終わる。読者は最後に救われる展開なのだが、どうもこの弟は好きになれない。

 秋葉原の事件がこの小説を色褪せたものにしてしまったという側面もあった。殺人という事件の凄惨さも、その追い詰められ方もやはり現実の事件の方が圧倒的である。この小説の出来事も当事者も秋葉原の事件を知ってしまうとかなり甘いと感じさせる。

 私は20代の時、職を転々とした。学生運動の後ということもあってまともな職業につけなかったのである。別にそれでもいいと思っていた。零細企業で、学生運動をしていたなんてことは隠して、何かわけありな社員達とけっこう楽しく仕事をしていた。中には、小指のない元やくざの人とか、もとキャバレー支配人とかもいて、いかにも吹きだまりのようなところだった。

 つまり、そういうところならば、兄が刑務所にいようが受けいれられる。が、いわゆる普通の企業に勤めようなんて思うと、家族のことがばれてしまって職を失うということになる。自分のために強盗殺人を犯してしまった兄のことを気遣い、そういう兄を持っているという宿命を受け止めて生きていくための方法も機会も本当はないわけではないのだ。が、この弟は、最初からないと思いこんでいるように思える。世の中そんなにひどいわけではない。むしろ、この弟の、底辺であってもそこにはそこでのまっとうな生活があるのだということに気付かず、そういう世界から逃げ出したいというその生き方が、差別を引き寄せいているとも言えるのだ。私の体験からそう言える。

 兄貴はある意味能天気だし、弟は自分の追い詰め方が足りないし、何となくフラストレーションの溜まる小説であった。結局この小説についてはあまり盛り上がらず、話はだんだんと雑談になりそっちのほうが面白かった。

 次の本は伊坂幸太郎の『アヒルと鴨のコインロッカー』に決まった。とりあえずは今売れてる本をみんなでわいわい読んでいこうというわけである。

            誘蛾灯じっと見つめる虫たちよ

散歩にはいいところ2008/06/16 01:11

 土曜日は大腸検査。ここ2年ほどやっていて3年目である。毎年良性だがポリープが見つかる。今年もまた見つかった。見つかると、一年後にまた検査ということになるので、来年もまたやらなくてはならない。大腸を綺麗にして内視鏡で検査するというものだが、半分麻酔の状態でやるので苦しくはない。むしろ、腸の中をきれいにするのが結構大変である。病院で食塩水のようなものを2リットル飲んで、三回目にトイレに行ったら、流さないで看護婦さんに見せなくてはならない。仕事とはいえ、看護婦さんも大変である。きれいなというのも変だが、要するにほとんど水だけになったら、準備が出来たというこである。

 西国立の医者に行っている。小さいところだが、便秘の専門医で私などはいつも便秘で苦しんでいるので助かる。

 金曜はアメリカからのフルブライトの教育視察団が来校。その接待である。接待と言っても、ただ同席するだけで、私は英語が話せないので、英語のやりとりをただ聞いて分かったような顔をしていればいいだけである。管理職はこういう接待関係の仕事にもでなきゃいけない。我が大学の授業やら校舎やら設備などを見学し、最後に記念写真を撮って帰っていった。

 この日曜日は久しぶりに家で過ごす。引っ越しいらい日曜日に一日いたのは初めてではないか。とにかく、朝からまだ整理できていない資料や小間物やらを片付けて一日が終わる。何とかだいたいは納まった。ようやく部屋らしくなってきたというところである。

 チビの散歩。成城界隈での散歩で気付いたことは、まず雑種がいないということである。川越にいたころは、雑種の犬が割合多かった。前に飼っていたナナも雑種で迷い犬だった。そういう犬がまずいない。チビは一応黒の豆柴で、雑種ではない。たまたま里親になった犬だが、さすがに、この小ささの黒の豆柴は、成城界隈でも見かけない。奥さんによると、黒柴は近所に5匹ほどいるそうだ。すでに散歩の途中、黒柴の飼い主からいろいろ情報を聞いているらしい。今日も朝散歩していたら、豆柴と聞いていたが大きい犬ばかりで初めて小さい犬に会ったと言っていた。チビだけは成城で負けていないようだ。

 公園で、派手な身なりの若い女性がミニチュアダックスを散歩させていたが、高いハイヒールを履いて香水をぶんぶんさせ、肩にかけてある犬を入れるバックはルイ・ヴィトンだった。これは内に遊びに来てチビの散歩をしていた姪の情報である。

 私の成城の印象は、とにかく老人が多いというものである。ここは確実に老人の街になりつつある。だから街自体がとても静かだ。私の住む成城の外れの調布市あたりになると、子供は多くなる。だからややうるさい。もっとも成城は家の面積が大きいので子供がうるさくしても聞こえないということはあるだろうが。

 近所では、畑で取り立ての野菜を売っている農家が何件かある。奥さんの情報によると、ある販売所の農家は土地持ちであちこちにアパートやマンションをたくさん持っているとのこと。ここいらあたりは人気があって部屋はすぐ埋まるとのことである。

 引っ越して気付いたことは付近に案外に農家が多いと言うことで、畑もけっこうある。成城はまだ新しい街ということである。もともとの農家が今では地主として畑を耕しながら農業のまねごとをやつているということだ。

 成城学園駅から数キロまでは真っ直ぐの道が縦横にめぐって、碁盤目上の街並みになっている。戦前に郊外都市として造成したその思想通りの街並みである。ただし、その区画がきれるたりから道路は細く曲がりくねり、家も一軒一軒が小さくなる。私が住んでいるのは丁度細く曲がりくねった辺りである。

 野川沿いの成城よりは河岸段丘が続き、崖地になっていて所謂ハケである。成城学園駅は地下になっているが、線路は喜多見の方へいくと視界が開けて野川の上を通る。トンネルから出る辺りが崖線である。その崖線は湧き水が出て緑地帯になっていて、その崖の上の家は見晴らしがいい。従って、成城でもこの崖の上は一等地であるということだ。野川とこの崖線のおかげで緑が多いのである。

 私の家は、この崖線の傾斜地にあるマンションで、古くて小さくて駅から遠いが、環境だけはいい。ゆっくり散歩でもするのにいいところである。ただ、私にはいまそんな暇がないが。

               万緑や柵で囲われ保護されて

野川とはけ2008/06/17 01:05

 以前、小金井に住んでいたとき(小金井にある植木関係の農協で働いていました)野川沿いに住んでいたこともあつて、野川について調べたことがある。きっかけは、小金井街道は野川の橋があるのに、国分寺街道にはない。どうしてかという単純な疑問からであった。そこで、野川の水源を調べたら、水源は、わかりやすいのでは国分寺駅駅近くにある日立研究所ないにある湧水池からの水と、経済大学のやはり湧水池であった。つまり、二つとも国分寺街道より東側にあるから、国分寺街道には野川そのものが通ってないのである。

 野川の水源は、以上の二つの他に、ハケの湧水池である。ハケとは、野川の沿いの河岸段丘で、多摩川がかつて蛇行していた名残でもある。この河岸段丘を国分寺崖線と言う。それがいつからかハケと呼ばれるようになった。このハケの崖線は、野川の下流まで続いていて、私の住む調布や成城まで続いているというわけである。野川は二子玉川で多摩川に合流する。

 この崖の上はかつて縄文弥生の時代は武蔵野の森林地帯であった。だから、そこで貯えた雨水がこの崖線の傾斜地から湧き水になつて噴出する。森林がなくなつても水脈は残っているので、いまだに量は少ないが湧き水はあるのである。この崖線のすぐ上は見晴らしが良く、日当たりも良い。湧き水も出るから古代からの住居地で、いくらでも遺跡が出てくる。小金井も成城もこの崖線のところを掘ると必ず竪穴式住居跡が出てくる。

 それから見晴らしがいいので小金井あたりの崖線には金持ちの別荘があった。ハケを世に知らしめたのは大岡昇平の『武蔵野夫人』である。「土地の人はなぜそこが『はけ』と呼ばれるかを知らない」で始まるこの小説は、終戦後、この崖線に住む斜陽華族の没落を描いた小説である。大岡昇平は、終戦後、小金井のハケにある富永次郎宅に滞在していたことから、この小説を書いたと言われている。私も実はハケという名前はこの小説で知った。

 ところで、私の学科の助手さんは小金井のハケの地主らしく、お祖父さんは「ハケ」と名付けた人だと語っていた。詳しく聞いていないのだが、どうも名前の募集があって、「ハケ」という名前を応募したらしい。思わぬ縁である。それから、調布市にあるハケの農家は近藤勇の実家があることで知られている。

 私が小金井に住んでいた30年前は野川は汚い川だったが、いまではかなりきれいになった。成城の野川ではカワセミがいる。カメラを持ってカワセミを写真に撮ろうとしている人がいるのである。それだけきれいになったということだ。

30年ぶりに私は野川の近くに住むようになった。いかもハケの崖沿いにである。見晴らしのいいところではないが、縄文や弥生から人が住んでいたところである。そう思うと何か心が落ち着く気がする。

       縄文の木魂かな夏木立

マンゴーを食べる2008/06/21 00:01

 今週は会議が続き、課外講習の授業もあり、さすがにこれぞ勤め人という感じの一週間であった。

 今の季節は悪くはない。やや蒸し暑いが夜は涼しいし、集中して何かをやろうとするのに、そんなに辛くはない。が、忙しいとそのやろうとすることが出来ないのが実際辛い。

 さすがにタフな私でも最近の管理職のハードさにはうんざりしてきた。私はいい加減にやるのが嫌いなので(結果的にいい加減になってしまうのは仕方がないが)、それなりに一生懸命にやるのだが、一体こんなに仕事をして誰のためになるのかな、と思うこともある。

 もう若くないのに、こういうように考えるのはあんまり良くない徴候で、鬱になりかかるときである。誰のために生きているのかなどと考えること自体が、一つの病であって、誰のために仕事をしているのかなどと考えることもまた病である。

 人は何も考えずに生き、働くように出来ている。そのことに意味づけをすること自体、人は何らかの意味がなければ生きないし働くものではない、といった転倒にすでに陥っている。この転倒した観念は大きな誘惑で、若いときは必死に働くことの意味を探し求めようとしたものだ。だから、その反動で普通に働くものか、物書きになるんだ!などといきがっていた。

 学生運動で普通に働けなくなってしまったのだが、その結果、転倒した生き方の持つ魅力と危うさとそしてくだらなさをそれなりに分かったことは私には大きい。だが、この歳になって、何のために仕事をするんだ…などと、つぶやいてしまうのは、まだ若いということよりは、逆に、人間というのはやはり転倒した存在であってそこから逃れられないということの証なのかも知れない。

 今年昨年と友人を立て続けに癌で亡くした。ほぼ同じ歳である。死は生を相対化するはずだ。とすれば、私は彼等の死でどのように相対化されたのか、と思うが、自分のことは自分ではやはり分からないものである。

 私の友人は学生運動のおかげで普通に就職出来なかったものが多い。私など運のいい方である。若いときにはほとんどがフリーターか派遣のようなものだった。今の派遣やフリーターとの違いは、観念で生きていた、ということである。つまり、転倒していた。20代のとき、食えなくても、仲間がいて、酒を飲んでは、かつての学生運動を語り、世の中を観念的に語ろうとしていた。そういう関係や観念を持てない今の若者は、とてもつらいだろうと思う。

 水曜日家に帰ったら、宮崎から噂の完熟マンゴーが届いていた。マンゴーが届いたという情報を聞きつけ姪っこが泊まりに来た。そこで奥さんと三人で宮崎のマンゴーを食べる。さすがに美味しかった。たぶん、一個、4、5千円はするということだ。

 農水省のお役人だった知りあいのKさんが、仕事を辞めて宮崎に移り住み農業を始めたのが三年前で、マンゴーを作り始め、ようやく出荷できるまでになったというので、我が家でも彼から送ってもらったのである。

 美味しいものを食べているときは、人は何も考えない。ただそれだけに熱中する。そういうものを人に提供できるような仕事がしたいなあ、とすぐ思ってしまう私は、マンゴーを食べる資格はないのかも知れない。

        六月や重たい意味を下ろしけり