野川とはけ2008/06/17 01:05

 以前、小金井に住んでいたとき(小金井にある植木関係の農協で働いていました)野川沿いに住んでいたこともあつて、野川について調べたことがある。きっかけは、小金井街道は野川の橋があるのに、国分寺街道にはない。どうしてかという単純な疑問からであった。そこで、野川の水源を調べたら、水源は、わかりやすいのでは国分寺駅駅近くにある日立研究所ないにある湧水池からの水と、経済大学のやはり湧水池であった。つまり、二つとも国分寺街道より東側にあるから、国分寺街道には野川そのものが通ってないのである。

 野川の水源は、以上の二つの他に、ハケの湧水池である。ハケとは、野川の沿いの河岸段丘で、多摩川がかつて蛇行していた名残でもある。この河岸段丘を国分寺崖線と言う。それがいつからかハケと呼ばれるようになった。このハケの崖線は、野川の下流まで続いていて、私の住む調布や成城まで続いているというわけである。野川は二子玉川で多摩川に合流する。

 この崖の上はかつて縄文弥生の時代は武蔵野の森林地帯であった。だから、そこで貯えた雨水がこの崖線の傾斜地から湧き水になつて噴出する。森林がなくなつても水脈は残っているので、いまだに量は少ないが湧き水はあるのである。この崖線のすぐ上は見晴らしが良く、日当たりも良い。湧き水も出るから古代からの住居地で、いくらでも遺跡が出てくる。小金井も成城もこの崖線のところを掘ると必ず竪穴式住居跡が出てくる。

 それから見晴らしがいいので小金井あたりの崖線には金持ちの別荘があった。ハケを世に知らしめたのは大岡昇平の『武蔵野夫人』である。「土地の人はなぜそこが『はけ』と呼ばれるかを知らない」で始まるこの小説は、終戦後、この崖線に住む斜陽華族の没落を描いた小説である。大岡昇平は、終戦後、小金井のハケにある富永次郎宅に滞在していたことから、この小説を書いたと言われている。私も実はハケという名前はこの小説で知った。

 ところで、私の学科の助手さんは小金井のハケの地主らしく、お祖父さんは「ハケ」と名付けた人だと語っていた。詳しく聞いていないのだが、どうも名前の募集があって、「ハケ」という名前を応募したらしい。思わぬ縁である。それから、調布市にあるハケの農家は近藤勇の実家があることで知られている。

 私が小金井に住んでいた30年前は野川は汚い川だったが、いまではかなりきれいになった。成城の野川ではカワセミがいる。カメラを持ってカワセミを写真に撮ろうとしている人がいるのである。それだけきれいになったということだ。

30年ぶりに私は野川の近くに住むようになった。いかもハケの崖沿いにである。見晴らしのいいところではないが、縄文や弥生から人が住んでいたところである。そう思うと何か心が落ち着く気がする。

       縄文の木魂かな夏木立

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