マンゴーを食べる2008/06/21 00:01

 今週は会議が続き、課外講習の授業もあり、さすがにこれぞ勤め人という感じの一週間であった。

 今の季節は悪くはない。やや蒸し暑いが夜は涼しいし、集中して何かをやろうとするのに、そんなに辛くはない。が、忙しいとそのやろうとすることが出来ないのが実際辛い。

 さすがにタフな私でも最近の管理職のハードさにはうんざりしてきた。私はいい加減にやるのが嫌いなので(結果的にいい加減になってしまうのは仕方がないが)、それなりに一生懸命にやるのだが、一体こんなに仕事をして誰のためになるのかな、と思うこともある。

 もう若くないのに、こういうように考えるのはあんまり良くない徴候で、鬱になりかかるときである。誰のために生きているのかなどと考えること自体が、一つの病であって、誰のために仕事をしているのかなどと考えることもまた病である。

 人は何も考えずに生き、働くように出来ている。そのことに意味づけをすること自体、人は何らかの意味がなければ生きないし働くものではない、といった転倒にすでに陥っている。この転倒した観念は大きな誘惑で、若いときは必死に働くことの意味を探し求めようとしたものだ。だから、その反動で普通に働くものか、物書きになるんだ!などといきがっていた。

 学生運動で普通に働けなくなってしまったのだが、その結果、転倒した生き方の持つ魅力と危うさとそしてくだらなさをそれなりに分かったことは私には大きい。だが、この歳になって、何のために仕事をするんだ…などと、つぶやいてしまうのは、まだ若いということよりは、逆に、人間というのはやはり転倒した存在であってそこから逃れられないということの証なのかも知れない。

 今年昨年と友人を立て続けに癌で亡くした。ほぼ同じ歳である。死は生を相対化するはずだ。とすれば、私は彼等の死でどのように相対化されたのか、と思うが、自分のことは自分ではやはり分からないものである。

 私の友人は学生運動のおかげで普通に就職出来なかったものが多い。私など運のいい方である。若いときにはほとんどがフリーターか派遣のようなものだった。今の派遣やフリーターとの違いは、観念で生きていた、ということである。つまり、転倒していた。20代のとき、食えなくても、仲間がいて、酒を飲んでは、かつての学生運動を語り、世の中を観念的に語ろうとしていた。そういう関係や観念を持てない今の若者は、とてもつらいだろうと思う。

 水曜日家に帰ったら、宮崎から噂の完熟マンゴーが届いていた。マンゴーが届いたという情報を聞きつけ姪っこが泊まりに来た。そこで奥さんと三人で宮崎のマンゴーを食べる。さすがに美味しかった。たぶん、一個、4、5千円はするということだ。

 農水省のお役人だった知りあいのKさんが、仕事を辞めて宮崎に移り住み農業を始めたのが三年前で、マンゴーを作り始め、ようやく出荷できるまでになったというので、我が家でも彼から送ってもらったのである。

 美味しいものを食べているときは、人は何も考えない。ただそれだけに熱中する。そういうものを人に提供できるような仕事がしたいなあ、とすぐ思ってしまう私は、マンゴーを食べる資格はないのかも知れない。

        六月や重たい意味を下ろしけり

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