自己開発トレーニング2007/09/25 00:41

 今日は後期最初の授業。「自己開発トレーニング」という心理学コースの科目で、心理学専門ではない私がやるのは、一番の理由は人がいないからだが、どちらかと言えばワークショップ型の授業なので、私でも出来るのではないかということでで引き受けた。

 自分を分析することはどうして大事なのか、これくらいのことは心理学を専門に学んでなくても語ることはできる。誰だって、心理分析はしている。友達の恋愛相談をした経験は誰にもある。それは個人的なカウンセリングだ。カウンセリングの目的が悩みを聞いて相手を理解し適切なアドバイスを与えることであるとすれば誰だってやっていることだ。

 ただ、プロのカウンセラーとの違いは、相手の悩みをある類型に分類し、その悩みに必要なアドバイスを体系的な知識の中から引き出してくることだ。つまり、個人的な関係ではないところで、同じ相談ができてプロになるというわけだ。その類型化や体系的な知識を学ぶのは他の授業でやることで、この授業では、その基礎を学ぶ。

 個人的な相談だって立派な心理学の実践である。ただ体系的な知識に基づいていないというだけだ。その個人的な相談が出来てしまうのは自己分析を無意識にやっているからである。他者の心なんて誰にもわからない。それでもわかったつもりになって相談にのったりするのはどうして可能なのか。それは、他者の理解の本質が自分を通して理解することだからだ。

 母親は子どもがやけどをしたとき思わずその熱さ自分の身体に感じ取る。それがどのくらい熱いのかわからないのにである。つまり、自分の痛さとしてそれを理解する。心理もそれと同じで、自分の苦しさや悲しさといった心の動きを無意識に相手に投影して、相手の心理を理解しているのである。

 が、それなら自分という一つの心だけでいろんな違いを持った他者の心をどうして理解できるのか、という疑問に突き当たる。それはこう考えればいい。自分の心は一つではないということである。心は実に多様な部分で成り立っている。様々な他者との関係の中で心が作られるからである。

 だから、様々な他者の悩みを聞くとき、相手に応じた自分のなかのある心を適応させてその相手を理解する。そうして、相手の悩みを自分の悩みの投影として理解するというわけだ。とすれば、自己分析とは、一つの自分の発見ではなく、実は、そこにいろろいな自分がいることの発見でもある。つまり、それはある意味では混乱するということだ。

 大事なことは、混乱しながらも、誰もある一つの自分を信じて生きているということである。どうして一つの自分を生きられるのか、それは難しいことだが、誰もがそうやって生きている。自己分析とは、実は、混乱の中で一つの自分を信じていくプロセスの擬似的あるいは意志的な再構成である。それが自己を発見していくということである。そのためにはまず混乱しなくてはいけない。来週から、その混乱が始まるというわけだが、どうなることやら。こっちの思い通りに授業が進むなんてことはまずないので、こっちも混乱である。 

        人どものざわめき超然たる芋虫

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