団塊世代の責任2007/09/21 01:14

 今日は出校、雑務である。授業は21日からであるが、私は24日から授業である。学校はまだ閑散としている。隙間読書で、上野千鶴子・三浦展『消費社会から格差社会へ』を読了。けっこう笑える本であった。いろんな流行語やらコピーが出てきて時々ついていけなくなる。「かまやつ女」対「エビちゃんOL」の「かまやつ女」がよくわからなかった。

 主に団塊世代の社会学的観察本といったところだが、こんな日本に誰がしてしまったのか、という問の答えはどうやら団塊世代が背負わねばならぬようだ。

 団塊世代の一人として納得がいかないというわけではない。自分の人生を振り返っても恥ずかしいことばかりやってきたなという気はしている。団塊世代は高度成長の時流に乗っただけなのに、勘違いして、自己実現だとか自分らしさを語り始めたから、子どもの教育に失敗し、次世代をニートやフリーターにしてしまったのだ、という指摘はなるほどと思う。

 確かに今から見ればいろんなことに手を出しながら失敗だらけの世代だった。それは認めるとしても、それなら、成功することってなんだろうかとも思う。成功した世代なんてあるんだろうか。私などは若いとき実際はわけがわからずに生きていたという気がする。親不孝だったが、そうせざるを得ない何かがあった。それが時流だったということかも知れないが、二十そこそこで、得体は知れないが向こう側には何かがありそうだというロマンを知ったら、親や共同体のために地道な生き方をしなきゃとは思わない世代だったのだ。むろん、数としてはそういう地道な生き方を選んだ方が多かったとしてもだ。

 そんなに時代や自分に批判的に生きられるものではない。ましていろんな欲望や野望で身をもてあます歳にである。その無意識で生きたこと自体に責任をとれと言われてもなあ、というところはある。が、現在の過剰な市場原理主義を推し進めたのは確実にわれわれ団塊世代である。何せ競争が身についているし、自己実現という願望をいつも抱えているのもこの世代だからこそ、競争社会としての消費社会を受けいれ、それを楽しんできたのである。

 下流社会や格差社会は、市場経済グローバリズムの一つの帰結であって、何も団塊世代が悪いというわけではないが、自分たちが楽しんできた消費社会のつけを子どもの世代に払わせているという意味では、罪は感じるべきなのだろう。われわれの世代の積極的なエネルギーがはた迷惑な分、子どもの世代はそのエネルギーを持たないことを選んだのだ。たぶんそれでバラスがとれたのだ。

 私は全共闘世代で、学生運動の渦中を生きてその時代が終われば、私の知りあいはろくな就職先もなく、それこそ、格差社会や下流社会の負け組を生きてきた。私だってそうだ。が、誰も負け組などとは思わなかったのは、そういう基準で誰も生きていなかったからだ。

 とりあえず別の基準があって、社会的には負け組でも楽しくやれる関係は築いていた。私はたまたま大学の教員になったけれどこれもたまたまで運が良かっただけである。

 そう考えると、われわれの罪は、人とつながって生きる楽しさを次の世代にうまく伝えられなかったということなのかも知れない。団塊世代への批判にいつもつるんで関係とかなんとか叫んでいる、というのがある(そういう気がするというだけ)。

 確かにそういう面があるが、でもそれって凄く大事だよ、と居直って言えなかったことが、悔やまれることだ。外国の発展途上国は日本なんて比較にならないほどの格差社会だし下流社会もある。が、どこか明るいイメージがあるのは、みんなつるんで生きていて楽しくやっている感じが伝わるからだ。むろん、実際はかなり悲惨であるにしても。

 食えない者同士がつるむのは社会的な本能である。が、日本では食えない者同士が徹底して孤独である。だからアパートの一室で餓死者が出るのだ。そこに社会的な本能が働かないほどに、人間自体が疲弊してしまったのだろうか。人と人とをつなぐいろんなシステムが壊れてしまったということか。

 負け組でいようと、そっちの方が人との繋がりは豊だしというような、社会の柔軟性を作れなかったことは、この社会で一番数の多い世代の人間として、少しは責任を感じなければならないか。 

         獺祭忌悔やむ言の葉ばかりなり

勘違い2007/09/21 23:48

 今日は明日の準備と、ドアの部分をこすってしまって、修理に出していた車が出来上がったので取りに行く。結局修理代は9万円かかった。たぶんそんなに高くはないと思うが、最初からいろいろすれ違いの修理だったので顛末を記しておく。

 去年、私が車をぶつけてやはりドアを傷つけたとき、ディーラーは修理代20万円と言ったが、武蔵村山の奥さんの実家の近くの修理工場で3万円で綺麗になおしてくれた。小さな修理工場で腕の良い年老いた職人が一人でやっている工場である。奥さんの父親は元日産工場の技術者でその時に同じ職場で働いていた人だという。

 そこで、その修理屋さんにまた頼もうと思ったが、領収書ももらっていたなかったので場所はわかるのだが名前がわからない。そこで武蔵村山の実家に尋ねると向こうでもどうやら名前がわからないらしい。父親はもう84歳である。ところが、奥さんの母(同じ歳)がI自動車ではないかと言い、父親はきっとそうだという。そこで奥さんが、場所はわかっているので電話張で調べると確かにそのあたりにI自動車がある。そこで父親に電話してもらった。

 伊奈平のHですが、と電話で言うと、すぐに向こうで、ああ、伊奈平のHさんですね、いつもどうも、と返事が返ってきて、I自動車に間違いない、ということになって、奥さんはそのI自動車に電話で連絡し、去年お世話になったあの職人と思われる人と話をしていついつ車を持っていくから、と約束をしたのである。

 そこで一週間前に、武蔵村山の実家に車を持って行き、父親の車に私が乗って二台で修理工場に向かった。場所はわかっているつもりだった。ところが、道を間違えたのか、どうも見当たらない。そこで車を降りて近くの家でI自動車はどこですか、と聞くと、あそこだと答える。

 どうも知っている場所とは違うのだが、近くは近くなので、行ってみると確かにI自動車とある。私は父親の車に乗って後からついていったのだが、何で奥さんの車が違う修理屋に入るのかいぶかって、おい此処は違うぞと叫んだが、とにかく事務所に行ってみると中に入っていった。事務所から出てきた奥さんは、キツネにつままれた見たいな顔をして、確かに電話で話をしていたのはここだという。でもあの修理工場ではない。人も違う。I自動車修理はやはり小さな修理工場だが、そこの社長らしき人はとても人が良さそうで、私たちが戸惑っているとすごく恐縮して、申し訳なさそうにしている。

 結局、電話で修理を頼んだし約束もしたわけだからというので車を置いて帰ったのである。不思議なのは、最初に電話をしたとき、I自動車修理が何故、ああ伊奈平のHさんですね、と返事をしたかということである。奥さんがI自動車に確かめると、Hさんには車検を出してもらってますよ、と言う。ところが、後で父親に確認すると、車検には別のところに出しているという。そこで、思い当たったのは、伊奈平にはどうももう一人Hさんがいるらしいということだ。時々そのHさんの郵便が間違って届くのだという。I自動車はそのHさんだと思ったのだろうということになった。われわれは別の修理工場だと思い、向こうは向こうで別人と間違えて、交渉をしていたわけである。お互いが勘違いしていたわけで、こういうこともあるのである。

 このままだと気持ちがわるいので、帰りに、去年の修理工場を探したがすぐ近くにあった。I自動車ではなく、Y自動車であった。小さな工場の中ではあのおじさんが汗まみれで働いていた。道に迷わなければこっちに頼むことが出来たのにと、悔やんだが、たぶん、電話で話していた相手は一体誰だと一悶着起きたろう。

 でも、I自動車の人もとても親切で、帰り際に、奥から社長の父親らしい老人が出てきて、小さな箱を抱えている。今朝近くの農家で取れたできたての卵が入っているから、これをもっていけという。けっこうぎっしり入っている。ここいらの修工場人達は腕もいいし人も良いなあと感心しながら帰ってきた。卵は食べきれないので、近所の人に分けてあげた。 

         秋彼岸車に乗せて送りたり