歌の徳2007/09/07 00:13

 8月29日に訪れた大達村は山の上にあり、途中はかなりの悪路で行くのに大変であった。パジェロで何とか行くことは出来たが、何度も降りて歩かねばならなかった。最初は車が入らないので歩いて登るという予定であったが、何とか車で上がることが出来たのはラッキーだった。

 それにしても、雲南の山岳地域では山の上に多くの村がある。ほとんど道路もなく、山の下にある道路に降りたりあるいは村に帰るために上がるのは大変な労力であろう。どうしてなのかといつも疑問に思うのだが、理由としては、まずそのような村の多くは水田稲作を中心とせず畑作なので、山の上の方が耕作には便利がいいということ。それから、山の下は気温が高くマラリアにやられる畏れがあるということである。もう一つ理由を挙げれば、山の下の平地は力の強い民族が占めているため、力の弱いものたちは山の上に住まざるを得ないということもある。

 大達村の下は谷になっていてそこには棚田がある。山の上に住んでも稲作を営む民族はこのように棚田を作るのである。特に有名なのがハニ族で、3000㍍級の山の2000㍍のところに彼等は村を作り、2000㍍から500㍍までの斜面に棚田を作っている。3000㍍から2000メートルは森林で、そこに貯えられた水が下の棚田を潤すのである。下に住まないのは暑いからで、ハニ族の地域では標高500メートルのところは気温は30度を超える。2000㍍のところはとても涼しいのである。

 大達村には劇団がある。村には舞台があり、行事があるとそこで劇を演じる。この村の劇団は有名らしくあちこちに呼ばれて講演するという。馬鹿歌(耳子歌)を伝承している近くの村もそうだが、雲龍県の村はこういった芸能文化がとても豊かである。劇団といっても村人が演じる獅子舞や京劇に似た素朴な芸能といったらいいだろうか。高倉健主演の中国映画で『単騎千里を走る』があったが、あの中で、高倉健演じる父が研究者である息子の遺志をついでビデオカメラに記録しようとした仮面劇も、ここの村人が演じているものと同じものと見ていいだろう。

 本当は村では踏葬歌は歌わないはずだったが、演劇の舞台の建物は公的な空間でありそこで歌うならばいいだろうということで、歌ってもらった。村の人達は親切だった。

 30日は大理へ戻り、31日は麗江に向かった。麗江に向かう途中、鶴慶という町に寄り、漢調という白族の歌謡の調査をした。これは、張先生の教え子がたまたまこの町にいるということでその教え子の家族の案内で、有名な漢調の歌い手に取材できることになったのである。漢調とは、白族の歌謡なのだが白語ではなく漢語で歌うところに特色がある。
鶴慶には漢族が多く、彼等も白族の歌に参加できるよう白族調の歌謡が変化していったらしい。田蛙調とも呼ばれている。この漢調の歌は前々から気になっていたので、思いがけず取材が出来てとてもラッキーだった。これも張先生のおかげである。調査とは、人脈が大切なのだと改めて感じた次第である。

 歌い手はほとんど目が見えない人で、彼はそのようなハンディがあるにもかかわらず若いときから歌がうまいので、歌のおかげで結婚相手が見つかり、家庭を営むことが出来たのだという。日本ではこういう物語を歌徳説話というが、まさに、歌の徳によって人生を歩んだ人である。確かに歌は声量があり、うまいなあと感じさせる。私は歌が歌えないので、歌の徳とは無縁である。だから歌がうまい人はとてもうらやましいと思うのだ。