人治主義と法治主義2007/09/11 00:43

 9日は友人が家を建て替えたのでその新築披露ということで出かけた。末期癌と闘っているI君も行きたいというので友人と一緒に彼を車に乗せて行った。I君もかなり弱ってきているが、それでもよくしゃべるしやはり顔を見ると少しほっとした。

 最近の病院は末期癌でも治療以外の入院をさせない。抗ガン治療以外は自宅で療養という方針だそうである。家族がいる人はいいが、彼のように独身の場合、しかも、自分で料理を作ることもままならない病状の場合は大変である。介護のヘルパー制度はあるらしいのだが、毎日くるわけではないし、安心というわけにはいかない。かといって、入院させてしまえばいいというものでもない。彼は彼なりに毎日本を読んだり音楽を聴いたりして静かな時間を自宅で過ごしている。病院ではそれが出来ないだろう。在宅治療と言うのは聞こえはいいが、病院側からは余分な治療費を抑えて面倒な病人を切り捨てるという手段にもなり得る。在宅でいながら手厚い看護が受けられるそういう体制にはまだほど遠いようだ。

 ここのところ中国から帰ったばかりなので、どうしても中国論が多くなる。友人のブログにNHKの中国特集シリーズで「民が官を訴える」の番組についての感想があったが、確かになかなか考えさせる内容ではあった。要するに官と企業の癒着によって、地上げが行われ、住民が不当に立ち退きを要求され、住民が裁判で官を訴えるというものである。官の腐敗を象徴的に暴き出した番組だが、似たようなことは、バブルの日本でもあったし、世界中で起こっていることである。

 問題はそれが共産主義の一党独裁の中国で、しかも、20年前には土地の私的所有すらなかった中国で起こっているということである。しかも、中国は法治主義は未熟で人治主義の国だという見方がある。つまり、住民が私的所有の象徴である土地の権利を求めて(正確には所有権でなく使用権。所有権は依然として国にある)官を訴えるということ自体が、今までの中国では考えられないことで、それが可能になったというところに、今の中国の変貌があるということである。つまり、この番組は中国の矛盾を映し出すと言うより、ここまでよく中国が変わってきたものだという驚きを伝える番組なのでもある。

 中国映画に『正義の行方』(1994)というのがある。共産党の方針をかたくなに信じ、個人の自由を認めず、村の発展のために懸命に努力する四川省のある村の村長の悲劇を描いた映画だ。村長は村人から恐れられるがしかし私を顧みない努力と高潔な人柄によつて村人から慕われている。ところが、その村長が公安当局の取り調べを受け逮捕されてしまうのである。

 理由は、村長のやり方は典型的な人治主義で、村人の裁判も自分で行い罰も下す。いわゆる伝統的な村落共同体の長でもある。それが近代的に生まれ変わろうとしている中国の方針、つまり法治主義に抵触してしまったというわけだ。人治主義と法治主義との衝突を描いたなかなか良い映画である。実は、村長を告発したのは村長の孫であった。小学生の孫は、学校で法治主義を教わり、村長の村の政治が時代遅れなのかどうか試しに役所に訴えてみたのである。その結果村長は逮捕され、村人の悲しみの中護送されるところで映画は終わる。

 すでに10年前から法治主義と人治主義との衝突は中国でテーマになっていたのである。高倉健主演の『単騎千里を走る』の映画の監督、チャン・イーモウは彼の映画の中でしばしば人知主義のよいところを描く。たとえば高倉健扮する主人公が刑務所に入れられている仮面劇の役者である囚人の劇を撮影したいと頼むところがあるが、規則ではそれはできない、そこで、権限を持つ役人に情で訴えてその要求を認めさせる。チャン・イーモウは、役人に情で訴えてルールを超えさせるのが好きで、「あの子を探して」では、13歳の先生が迷子の生徒を捜すのに、テレビで訴えればいいと教えられ、テレビ局に行くが、受付にそれは無理だ、局長がいいと言えば別だが、と断られる、そこで女の子はひたすら局長を待ち続けついに局長に願いをかなえさせてしまう。これも情の力がルールを超えた場面である。

 人知主義は、官と民の癒着というような種々の害悪を生むが、一方このように法の力では救えない人を救う情を発揮する力にもなり得る。今中国は確実に人知主義から法治主義に変わりつつある。たぶん、チャン・イーモウの描く人情劇はだんだんと成立しなくなるだろう。すでに日本では消えてしまったようにである。

 法治主義になることは歴史の必然であって悪いことではない。が、どんなに法治主義になろうとも、現場での法の運用はあいまいさや手加減が横行する。それは良い場合もあれば悪い場合もある。法治主義の日本だって、生活保護を必要とする病人に自治体も赤字だからという理由で餓死に追い込むことがある。役人の汚職がなくなるわけでもない。結局は社会の倫理の水準が問われるということだろうが、少なくとも、個々の倫理を問わなくても、理不尽さが横行しないようなシステムは作るべきで、それは法治主義でやるしかないのである。

 中国は一党独裁の国だからそれは無理だろうという考えもある。つまり、権力を握れば反対者がいないから法を破っても罰せられない。従って権力者に倫理がなければ社会の矛盾は増大し、このままでは中国は矛盾に押しつぶされて崩壊するだろうという意見もあるようだ。確かに、格差社会や農民の犠牲には胸が痛むし、そういう痛みが政治的な主張になり得る政治のシステムを作らなければならないのは確かだ。

 10年ほど前に中国が経済発展をし始めたとき、中国嫌いの日本の保守派は、そのうち中国は国内矛盾に耐えきれず四分五裂すると盛んに発言した。が現実はそうなってはいない。今でもそういう声はあるがたぶん中国はうまく乗り切るだろう。なぜなら、中国には政治的自由はないが経済的な自由はあるからである。格差が広がったのは、経済的な自由のためで、アメリカとそれは同じである。

 中国人は今経済的な自由を日本人より満喫している。今中国では成金のチャンスが膨大にある。だから、一攫千金を夢見て偽物も毒入り食品も作るのである。こういう夢のある国家はつぶれない。歴史を見れば分かるがこういう夢を人々から奪った国家が結局は潰れていくのである。

 中国は、現在、発展段階論的に言えば、原始的なアジア・アフリカ的段階から、欧米や日本の高度資本主義の段階まで、全部を含みこんだ社会になっている。多層的で多元的で多時間的である。その意味では矛盾も半端ではないが、流動的であると言う意味では、健全なのである。その流動性が止まったとき、中国は四分五裂するかも知れない。

 流動的になったときに四分五裂したソ連と逆だが、ソ連は、四分五裂しなければ流動的にならなかったからだ。ところが、中国は一党独裁の国家のままでしかも十数億の人口を抱えたまま流動的な資本主義の流れに乗り、それを何とか乗りこなしている。この知恵を過小評価してはならないだろう。中国が法治主義を今徹底させようとしているのは、法治主義でないと、資本主義による巨大な経済活動を統御するのは無理だからだ。

 中国のこの壮大な実験がどうなるかわからないが、すでに充分にその実験に巻き込まれている日本は、そのうち潰れるさと冷ややかに見ているわけにいかないのは確かだ。中国の経済が潰れれば日本の経済も間違いなく潰れるからである。

      其処此所の秋の野花を一掴み