高原で8世紀の勉強2007/07/15 22:57


 台風の影響でさすがに山の天気は荒れているが、心配したほどではない。霧ヶ峰高原はちょうどニッコウキスゲが咲き始めたころなので、雨の中を出かけた。霧ヶ峰高原のコロボックル付近の高原を散策し、それから、八子峰高原の方にも足をのばした。

 ニッコウキスゲ一面に咲いているというわけではないが、だいぶ咲き始めている。八子峰のほうは、何種類かの高山植物が咲いていた。

 教え子が連れてきた2歳の子は、うちのチビが好きで近寄っては撫でようとする。チビは逃げるのだが時に観念して固まってしまい好きなようにさせている。耳とか尻尾とか言いながらさわっているので、絵本で覚えた名前を確認してるのだろう。生きた教材になっているというわけだ。

 私の方は、暇を見ては八世紀の歴史の勉強である。テーマは八世紀の官人の世界を知ること。官人が国家の官僚機構を担う存在として登場するためには、官僚機構そのものが確固としたものとして成立していなければならない。八世紀の律令国家はどの程度の官僚機構を作り上げたのか。

 わかったことは、八世紀の律令制度はかつて言われているほどには衰退していたわけではなく、それなりに財源は確保しており、政治的な混乱の割には安定した制度であったということだ。たとえば藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱(764年)では、孝謙が仲麻呂の機制を制して、淳仁天皇から、鈴印を奪ってしまう。仲麻呂は、畿内の軍事権を掌握し淳仁天皇を味方につけていて、しかも、かなりの権勢を誇っているのだから、本来なら負ける訳がないのだが、天皇の公的な文書に押される鈴印がないことによって、一挙に不利な立場に立たされる。というのは、すでに律令制に組み込まれた軍隊は天皇の公式文書による命令によってしか動かない仕組みになっていたからである。結局、鈴印による公的な文書は仲麻呂と敵対した孝謙によって出され、仲麻呂は謀反人として追われることになるのである。

 八世紀中頃の政治は、先進的な中国の制度を取り入れ、改革による天皇を中心とした中央集権化を目指す派と、律令制を受け入れつつも急激な改革を嫌い、律令以前の大王と豪族や貴族による合議制的な政権運営を懐かしむ守旧派との権力争いが続く。両派が交替で政権を握る激しい権力闘争のため、この権力闘争を無事に生き延びた高位の貴族は少ない。家持も生き延びた一人である。

 大事なのはそれでも律令制度そのものは安定していたということである。つまり官僚機構が整い、権力闘争はその官僚機構の長をめぐる争いであって、官僚機構を担った官人たちは、その政局に巻き込まれるということはなかったということである。

 つまり、官人達は政治から相対的に自立したシステムの一部として生きていたのであり、いわば官僚機構という抽象的な空間を生きていたことになる。多くの官人は、本貫の地を離れ都に住むことを余儀なくされたものたちでもある。そして、都をふるさととして、地方に赴任していく。そのように考えていくと、地縁、血縁を保証する土地や自然(神)との結びつきを失って、制度や都という人為的な空間に帰属しなければならない官人の心の世界が少しは推し量れようというものだ。

 そういった官人の情調の共同性を基盤に万葉集という歌集が成立した。家持はそういった官人の情調に表現の価値を見出したのだと私は思っている。

    夏雲や子どもはやおら一人立つ

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