欠点だらけでも楽しい社会 ― 2007/02/23 00:56
今日は一日原稿書きだったが、学校からいろいろと連絡が入って雑務をこなす。やはり、成績発表にかかわることであった。いろいろ予測を立ててルールなどを作っておくのだが、なかなか現実は予測通りにはいかないし、ルールもすべてを見通して作っているわけではないので、不備も出る。ルールで対応できないことが起こったときどうするか、責任者の能力が問われるときだ。
こういう時は迷ったらいけない。先延ばしも原則としては避けるべきだ。すぐに解決できる問題と出来ない問題とを区別して、優先順位をつけてことにあたる。そういう判断が問われる。それから、労力を惜しまない。最初に労力を惜しむと、そのつけは必ず後に倍返しで回ってくる。面倒なことは先にやっておくことが基本だ。
それから、職場で人とのコミュニケーションを嫌がらないこと。私は人見知りをするほうなので普段はあまり人としゃべることはしないが、仕事の時は別だ。授業の時は饒舌になる。それと同じこと。とにかく小さなことでも面倒がらずに当事者と話をすること。往々にして、自分に都合が良くても他人に都合の悪いことは、コミュニケーションをとらずに、いきなり決めてしまおうとし勝ちである。そういうのはだいたい失敗する。
日本の会議というのは、10人いても一人強固に反対すれば、8割反対したのと同じ効力を持つ。なぜならその反対意見はたいてい意地で反対していて、合理的でないからである。こういう時に多数決をやると、事態をますます悪化させる。誰もうらまれたくはないから、大抵は、多数決を避け先送りにしようとする。多数決が正常に機能するのは、賛成反対がどちらも合理性をもっている場合である。両者にあるいは片側に、その意見に合理性が無いときの多数決は、ただの排除にしかならない。これは遺恨を残すことになる。日本という社会はほんとうにやっかいなのである。
それからこれが一番肝心で難しいのだが、仕事は仕事、人は人と割り切ること。だいたい人はこちらが思った通りには動いてくれないものだ。当然、相手もそう思っている。職場という人間関係を利害で縛る場所は、人を恨む材料には事欠かないところだ。つまり、人を憎悪したり自分をだめだと思うには、実に最適な場所なのだ。だから上手く行かないときにいちいち人というものに原因を求めていくと、人間そのものがいやらしくなる。仕事は仕事、人は人で、仕事=人ではないということ。仕事が出来ないやつもいる。腹が立つが、それは仕事の問題に過ぎない。人の問題ではない。どんな職場でも、向き不向き、得手不得手のミスマッチをある程度抱え込んで動いている。そういうものなのだ。それを完璧にしようとしても出来ないと思った方がいい。
つくづく仕事をして生きていくことは修行だと思うことがある。これは私の体験から言うことだが、今までいろんな職場で働いてきたが(私は自慢じゃないが運転手から営業、農協職員、塾講師、教員とかなりの職業体験がある)、この人は立派だと思った人は数えるほどしかいない。つまり、ほとんどの人はどこか欠点を抱えた人で、だいたい、そういう人の中でみんな仕事をしているのである。だから、仕事で失敗すれば、責任転嫁は当たり前だし、自分の責任をなるべく少なくしようする。
誰もが生活を抱え、家族を養わなくてはならない人もいるから、失敗は認めたくはない。そういうものなのだ。部下をこき使い責任を負わない嫌な上司は必ずいる。が、その人はたぶんそうしなければ生きていけない事情を必ず抱えている。
私だってそうかもしれない。でもそういう中でけっこうみんな楽しく働いていた。これも経験から言えることである。欠点だらけでも楽しい社会は出来る。それもまた確かなことだ。
家にいるとチビとの散歩が気晴らしになる。新河岸川沿いの草もだんだんと増えてきた感じだ。
下萌の頃なり地の草も声挙ぐ
こういう時は迷ったらいけない。先延ばしも原則としては避けるべきだ。すぐに解決できる問題と出来ない問題とを区別して、優先順位をつけてことにあたる。そういう判断が問われる。それから、労力を惜しまない。最初に労力を惜しむと、そのつけは必ず後に倍返しで回ってくる。面倒なことは先にやっておくことが基本だ。
それから、職場で人とのコミュニケーションを嫌がらないこと。私は人見知りをするほうなので普段はあまり人としゃべることはしないが、仕事の時は別だ。授業の時は饒舌になる。それと同じこと。とにかく小さなことでも面倒がらずに当事者と話をすること。往々にして、自分に都合が良くても他人に都合の悪いことは、コミュニケーションをとらずに、いきなり決めてしまおうとし勝ちである。そういうのはだいたい失敗する。
日本の会議というのは、10人いても一人強固に反対すれば、8割反対したのと同じ効力を持つ。なぜならその反対意見はたいてい意地で反対していて、合理的でないからである。こういう時に多数決をやると、事態をますます悪化させる。誰もうらまれたくはないから、大抵は、多数決を避け先送りにしようとする。多数決が正常に機能するのは、賛成反対がどちらも合理性をもっている場合である。両者にあるいは片側に、その意見に合理性が無いときの多数決は、ただの排除にしかならない。これは遺恨を残すことになる。日本という社会はほんとうにやっかいなのである。
それからこれが一番肝心で難しいのだが、仕事は仕事、人は人と割り切ること。だいたい人はこちらが思った通りには動いてくれないものだ。当然、相手もそう思っている。職場という人間関係を利害で縛る場所は、人を恨む材料には事欠かないところだ。つまり、人を憎悪したり自分をだめだと思うには、実に最適な場所なのだ。だから上手く行かないときにいちいち人というものに原因を求めていくと、人間そのものがいやらしくなる。仕事は仕事、人は人で、仕事=人ではないということ。仕事が出来ないやつもいる。腹が立つが、それは仕事の問題に過ぎない。人の問題ではない。どんな職場でも、向き不向き、得手不得手のミスマッチをある程度抱え込んで動いている。そういうものなのだ。それを完璧にしようとしても出来ないと思った方がいい。
つくづく仕事をして生きていくことは修行だと思うことがある。これは私の体験から言うことだが、今までいろんな職場で働いてきたが(私は自慢じゃないが運転手から営業、農協職員、塾講師、教員とかなりの職業体験がある)、この人は立派だと思った人は数えるほどしかいない。つまり、ほとんどの人はどこか欠点を抱えた人で、だいたい、そういう人の中でみんな仕事をしているのである。だから、仕事で失敗すれば、責任転嫁は当たり前だし、自分の責任をなるべく少なくしようする。
誰もが生活を抱え、家族を養わなくてはならない人もいるから、失敗は認めたくはない。そういうものなのだ。部下をこき使い責任を負わない嫌な上司は必ずいる。が、その人はたぶんそうしなければ生きていけない事情を必ず抱えている。
私だってそうかもしれない。でもそういう中でけっこうみんな楽しく働いていた。これも経験から言えることである。欠点だらけでも楽しい社会は出来る。それもまた確かなことだ。
家にいるとチビとの散歩が気晴らしになる。新河岸川沿いの草もだんだんと増えてきた感じだ。
下萌の頃なり地の草も声挙ぐ
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