続、民族衣装を着る2007/01/18 22:24


 今日は一部の方の地域文化論の授業。こちらでも民族衣装を着てもらう。11人に着てもらった。こっちは全部若い。当たり前だ。特に白族の衣装に人気が集まった。確かに着やすいし、飾りが少ないわりにはとても映える衣装だからだ。

 民族衣装は何処の国でも女性が中心である。なぜなら衣装とは様々な情報を束ねた記号であるからだ。特に女性は異性へのメッセージを衣装に託す。未婚の女性の衣装が派手になるのはそのためだ。それと大事なことは、民族衣装には個性はメッセージにないということだ。ある村や地域の民族はみな同じ衣装を着る。そのことは、女性には、個性や個人の内面といった情報はそれほど必要とされていなかったことをあらわしている。

 その意味では現代は違うが、それなら、女性の現代の衣装は個性や内面をあらわすメッセージになっているかというと、必ずしもそうではないだろう。流行に敏感で、けっこうみんな同じようなものを着ているではないか。だから、衣装で個性を表そうとすると、かなり奇抜なものになってしまう。それは、みなと同じ生き方はしないという宣言であり、そうとう勇気のある選択になる。それくらい皆と違う衣装を着るということは大変なことなのである。

 男の衣装が地味なのは、男に必要とされるのは仕事の能力であったり、社会的な地位であるから、それをあらわす衣装でさえあればいい。アフリカのある部族では、結婚の時には女が男を選ぶ。その部族では化粧をし着飾っていたのは男だった。現代社会では、女性が働くようになり、男を選ぶようになった。とすれば、男はもてるために派手な衣装を着るようになる。ジャニーズ系が増えてきたというわけだ。

 消費社会は、生産ではなく、快適なサービス(人間関係と置き換えてもいい)に生産性を求めるので、むさくるしいのは、男でも女でも敬遠される。その意味では、女性の異性を惹きつける衣装の記号が、社会的な記号として一般化していく。つまり、異性の気を引くわけでもないのに、誰もが、美しくありたいと自分を装うわけだ。安倍首相も「美しい国」の美しいとは違うが、でも、安倍首相の服装はかなりテレビ映りがいいように気を遣っている。そうなっていくとみんなが着飾るから、異性を衣装や外見でゲットしたい女性の衣装に込めた要求はかなり過剰にしないとその効果はだんだんと薄れていくことになる。 

 そうするとどうなるかというと、性的なアピールどを高めていくしかない。女子高生がやたらにミニスカートにするとかエロかわいいが流行るのはそのためである。美ではなく刺激で勝負である。だが、美は飽きないが刺激はすぐに飽きる。それが辛いところだ。若い女性の旬はだんだんと短くなってきている。二十過ぎればもうオバンと言われる。それが消費社会における女性の宿命である。

 だったら、少数民族にならって、成人式に晴れ着を着るように、異性にメッセージを送りたいときにはみんな同じ民族衣装を着ればいいのである。異性への刺激の競争をしないですむし、男は、みんな同じ衣装なのだから逆に内面を必死になって見ようとするだろう。内面を見られては困る女性を除いてはいいことではないか。内面を見られて困る女性は、みんな同じ衣装なのだからごまかせるかも知れない。これも悪い話ではない。

 学生に民族衣装を着てもらいながらそんなことを考えてみた。

     両袖を掴みて笑ひ日脚伸ぶ

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