「発見」はもういい2007/01/22 00:43

 疲れました。センター試験で一日拘束。朝が早かったので、昨日はホテルに泊まりました。まあ事故もなく無事に終わってよかった。今日は理科や数学の試験。朝から夕方まで理科と数学だけで五科目の試験だったが、それを全部受けた受験生はすごい。かつて出来の悪い受験生だった私には、この人たちが将来偉い人になるかも知れないなどと思いながら、良い点が取れるよう祈るばかりでした。

 昨日今日と古橋信孝『和文学の成立』を二百五十ページほど読んだ。いくつか読んだ論もはいった文章なのだが、あたらめて古橋さんの今の関心を再確認した。要するに和歌は和の文体のもとになっていったということだが、それを和の散文(和散文とも言っている)にしていったのは、日記や手紙であろうという。その意味では、和歌を日記として編纂したりあるいは手紙として抱え込んでいった、家持に着目している。

 漢文や漢詩が公的なものなら、和文(和歌や和散文)は、私的なものを担う。その場合の私的なものとは、都市的な生活によって登場するというより発見される個人的な生活世界である。例えば情の世界はそのような生活世界そのものとして発見されたという言い方をする。和文は身体的という言い方もするが、それは漢文が観念的であることに対して、和文は生活的であるということのようだ。

 漢文や漢詩では表現出来ないとする「こころ」が和歌の価値として思想化されるのも、この都市的な世界の成立(古橋さんはむしろそれを郊外論として押さえるのだが)とかかわるという。つま、漢文や、漢詩的な世界のとらえ方が出来てきて、和的な世界のとらえ方が成立するのだが、その和というのは、生活世界だというのが、いかにも古橋さん的なとらえ方と言えばいいだろうか。

 和文の成立(それは和歌も含む)を、漢文や漢詩による表現世界の成立によって必然化される、という思考の方法は、例えば漢文的日本書紀があってこそ和の古事記が成立するのだという言い方、それは、一時代の大きな歴史研究や文学研究の流れであり、歴史以前(起源)を語るポストモダン的方法に対する批判でもあったが、古橋さんも、とりあえずはそういう位置に身を置いたのかなと、だいぶ前から思っていた。

 が、読み返してみて、結局、古橋さんは、和文の普遍性を歴史的な普遍性として語りたかったのだということを理解した。つまり、起源論のような折口的な場所から論理の水準でいつのまにか歴史につないでしまう語り口ではなく、最初から歴史の問題として語らなければならないとどうも強く思っていること、そして、和文とは、私的世界であり、その私的な世界が歴史性によって裏付けられ、それが普遍性を獲得してしまうのだ、ということを言いたいのだろうということがわかってきた。それは、言い換えれば、和文の世界はどんなに頑張ったって、私的な世界の水準を超えられない、ということにもなる。

 だからこそ、古今集序の「こころ」や本居宣長の「もののあはれ」という思想によって、和文体そのものは価値付与されなければならないということかも知れない。言い換えれば、うまく言い表しがたい何か、という表現の動機を、われわれは和文体によって手に入れてしまったという、宿命的な歴史性を持っているということだ。漢詩や漢文によって手に入れたとは、言えないところに、われわれの文学の面白さとやっかいさがあると言えばいいか。 

 ただ、和文による生活の発見というような言い方は、リスクを回避した言い方にも思える。言語は層をなしている。その層の底は簡単には辿れない。近代は、その辿れない層を新しい言葉や方法で喚起させあるいは再現したように装うが、それを発見あるいは発明といっていいのかは疑問だ。

 われわれの近代の方法や言葉自体だって、古層からの蓄積の上に乗っかっていないとはは言えないし、近代が常に絶対なわけでもない。そこまで徹底して相対化すれば、発見なんていう言い方は不遜だし、自己中心的な言い方か、あるいは、深層や古層につながる何かをとりあえず排除して安全なところで言っておこうとするリスクを回避した言い方なのだ。最近この「発見」あるいは「発明」がやたらに使われることにうんざりし始めたところである(私もけっこう使っていた。反省する)。

 確かに、和文体の発生は歴史的に説明出来るとして、それなら何故「情」なのか。何故「情」が、漢文や漢詩ではない、和の表現として発見されたのか。それは、身体性だと、古橋氏は割合簡単に言う。さすがに、的は外していないが、身体性をただ漢文や漢詩の対極にあるものとして片付けるのではなく、古層の側からの、われわれのあり方の問題として語れないか。それが不満というよりは、逆に、見えた来たものだった。

        大寒や繁き思ひも縮こまり