私性ってなに2007/01/24 01:00

 今日も疲労困憊である。朝から会議(理事会)なので早めに家を出たのはいいが、東武東上線の川越駅の改札口を入ったらなにやら様子がおかしい。ホームに出てみると電車が止まったままで動いていない。人身事故で全線不通だという。あわてて改札口を出てJRの埼京線に乗り換えようとしたが、パスネットはいったん入ってしまうと、自動改札口からは出られない、ところが駅員のいる窓口は払い戻しを受ける客で長蛇の列である。けっこうあせってきた。列の後ろに並び何とかパスネットの払い戻しをしてもらいJRの方に向かった。若いサラリーマンが駅員に向かって、何で事故の表示をしておかないんだ、改札口を入ってしまったじゃないか!と怒鳴っていた。同感である。

 埼京線に何とか乗れてといっても満員だったが、新宿まで行き、都営新宿線に乗り換え、会議に間に合った。それにしても朝から疲れた。一日雑務。昼を食べる暇もないほど書類作りをして、そして会議。

 夕方5時半に岩波に行って古橋さんたちと古代の特集の打ち合わせ。何せ、岩波は仕事場から5分で行けるところにある。今まで雑務をこなしていて、5分で文学研究の話に頭を切り換えろと言っても無理な話だ。今日は古橋さんがモティーフを語る番で、最初はぼんやりと聞いていた。

 文学史が大事なのだということから和の文体の話、万葉の位置づけ、土佐日記の位置づけと話は多岐に及ぶ。私は前の日記に書いたように当初文学史という立場への執着にやや距離を置いていたし、もっと、文字以前の古代を語らないことに不満も抱いていたのだが、話を聞くと、さすがに面白くなってくる。つまり、私が考えていたよりは、古橋さんの言う和文体や私的世界というのは、聞いていた私が混乱するほど多面的で複雑であることがわかってきた。確かに、和文は、漢文的な世界性の対極に生まれたとは言うけれど、その多面性、幅の広さとはなんなのだろう。

 結局、私的世界というときのその「私」の中身が問題ですよね、と質問をしたが、やはり「私」の多面性、幅の広さの問題にもつながる。中国の公私の「私」は公に対立する概念でその意味ではもう一つの公であると言われる。が、日本の「私」はどうもそうではない。むしろ、無意識にふるまってしまう勝手さといったらいいか、あるいは閉じられ気味の世界と言ったらいいか。あるいは、宿命を受容するような態度と言っていい気もするし、どうも上手く掴めないのだが、言えることは生産的であったり能動的ではないということだ。日本の私も公でないことはないが、それ自体は思想にはならない。むろん、思想として評価される対象にはなってもである。

 和歌の言葉がこの私性に支えられている、というように考えると面白いと思う。私の関心は叙情にあるが、叙情もまたこの私性の問題だと言えるだろう。 

 帰ってきたのは夜の11時近く。さすがにへとへとであった。

     厳寒や懐に叙情温みたる