万葉集を読むということ2007/04/05 00:06

 最近、古事記の一般向けの出版が相次いでいる。三浦佑之氏から『古事記のひみつ』(吉川弘文館)が送られてきた。『古事記講義』の文庫版や、『金印捏造事件』などが出たばかりだから、ここのところ、立て続けに本を出している。

 工藤隆氏の『古事記の起源』(中公新書)は売れているそうだ。毎日新聞で、三浦雅士が書評を書いていた。衝撃を受けたと書いてある。新書版は分かりやすくがモットーだから、主張をシンプルにしなければならない。それが、メッセージになり、上手くはまれば売れる。工藤氏のは、やはりアジアの少数民族文化をモデルに古事記の深層を探るというコンセプトが受けたようだ。

 三浦氏の本の帯には「古事記の序文は偽物だった」とある。以前から三浦さんが唱えていたもので、今回どう展開しているか読むのが楽しみである。

 一方、万葉集関係の本は、古事記に比べてあまり出ていないのは寂しい限りである。やはり歌はそれほど一般受けしないということか。古事記は、だいたい歴史好きのやや高い年齢層(男)が購買層である。ところが、万葉集となると、高年齢の女性ということにもならない。つまり、一般的な購買層のイメージが掴めない。ようするに、リサーチが出来ない。たぶん、可能性としては、短歌をたしなむ層だが、万葉にまで興味を示す層はそう多くはないだろう。

 万葉集は日本の大事な古典だから大事にしろなどと言うつもりはないが、このように万葉集に陽が当たらないのは研究者の責任だ。要するに、最近の研究がスリリングでない。スリリングとはどういうことか。現代の私たちを解き明かさないと言うことだ。

 かつて国民歌集と呼ばれていたころの万葉集の読みは、近代のわれわれの感性をそのまま読解にあてはめるか、国学者がそうしたように、近代のイデオロギーに基づいた読み方をしてきた。が、折口信夫などの影響もあって、われわれの感性とは違う古代の宗教的とも言える感性の側で何とか読もうという流れになり、「神」とか「呪性」とか、そういった向こう側を一言であらわす象徴的タームでの研究が盛んになる。

 が、最近は、二つの読み方が出てきた。一つは、読むことをあきらめて、徹底して、制度、政治、国家といった歴史や、観念の所産として、文学的価値を相対化しようとする読み。これは、文学という幻想への徹底した批判でもある。一方は、神とか呪性といったタームを、われわれの感性の側に引きつけて、われわれの論理を縛っている合理的な秩序を超えた、それ自体神秘な論理を掴もうとする傾向。例えば、スピリチュアリズムや、荒唐無稽な中世神話などに向かうのはこのタイプだ。

 私の立場はどちらかと言えば後者に近いが、後者ではない。第三の立場と言っておこう。以上の二つの立場には、万葉の古代と現代とには断絶があり、それは超えられるものではないという前提があって、読めないから、制度や国家という近代が生み出した観念の普遍性の側に古代を解体しようとする。後者は、一見、われわれとの共通性を古代も持っているという立場に見えるが、そうであればスピリチュアリズムまではいかないだろう。断絶を超える、われわれの合理的な論理とは違う説明装置をロマン的に追求しているという意味で、今のわれわれは異質ではないというある意味での特権が与えられてしまっている。

 古代が異質なら現代のわれわれも異質なのだというのが私の立場である。今のわれわれが普通なら古代も普通である。むろん、断絶はあるだろう。が、万葉の人々は宇宙人ではない。問題は、様々な異質さや多様さを抱え込んだわれわれ自身を語る論理が見いだせないでいる、ということなのだ。

 万葉人の一部がわれわれだし、われわれの一部が万葉人でもある。そういう理解があってもいい。むろんその間に、神と人との落差のような断絶があってもいい。それでも、お互いがお互いを含み込んでいるような関係にある、ということ。その立場に今立つことが大事なのだ。

 そういう姿勢が今必要である。あまりに異質さを強調しすぎて、研究は最後の最後で極めて抽象的な観念に逃げてきた。実証的であれとか科学的であれということを言いたいわけではない。むしろ、万葉も古事記も、今のそして新しいわれわれを発見する書物なのだということなのである。

 それが論じられないで、何で若い人に万葉集や古事記の魅力を語ることができるだろう。われわれの中に共通する何かがあるのだ、というその何かを語ろうとする語り口を懸命になって探すことの中からしか、何も生まれないのではないか、というのは、古代の古典を教える私の切実な思いである。その懸命な格闘を避けて、制度論や、スピリチュアリズムに入り込んでしまうと、それこそ安易な伝統論が幅をきかすことになる。

 そのように考えれば、論じることはいくらでもある。例えば今私は「悲し」とか「思う」とか「恋ふ」といった心情語が何であんなにたくさん使われているのか、ということに驚きをもって向かおうとしている。このことに人はあんまり驚いていない。陳腐だとか当たり前だとか、簡単に片付けている。

 でも、こういうところからまず驚き、そして、それを論じる語り口を懸命に探すこと、そういう積み重ねが、たぶん万葉集研究を面白くするだろうと思っている。先は長いとは思うが。
 
万葉を読まぬ人にも春の宵