困った。2006/11/27 00:09

 私の属する短歌の会で、一時間ほど講義めいたことをしている。今日もその日で、湯島天神の近くにある湯島コミュティというところへ行った。テーマは「荒ぶる抒情」。抒情には様々な段階があるはず。荒ぶるというのがあってもいい。

 近代短歌だと斎藤茂吉からかなと思ったが、山川登美子にもそういう歌があることを前の日記に書いた。結局、自分と他者もしくは社会との間に亀裂が生じたときに、感情は身体に奔流し渦巻く。その奔流が暗く自分に対してネガティブにあらわれるのが「荒ぶる抒情」と考えてもよいだろう。

 与謝野晶子の「みだれ髪」はその感情が自分に対して肯定的に現れたとするなら山川登美子は否定的に現れた。だから、暗い歌が生まれた。斎藤茂吉もそうだ。彼の中には、何処か他者と自分と折り合わない何かを抱えていて、それで、荒ぶる歌が出てくる。

 そのような異和を起点に感情を奔流させ、それを表現の力としていくのが近代短歌の一つの解放のあり方だったとすれば、そこには明と暗があったということだ。その暗の部分を方法的に研ぎすませ、時代に対して鋭く言葉を対峙させたのが前衛の歌人だった。そして、その流れを汲むのが、福島泰樹であり、加藤英彦だろう。そういうことをしゃべった。

 山折哲雄の「歌の精神史」を交えながら、「身もだえする抒情」は短歌の根底を流れる身体性なのかもしれないなどとも話した。ただ、その身体性は、スサノオやヤマトタケルの荒ぶる行為がどこか幼児性から抜けきらないように、幼児性を抱えているかもしれないなどとも話した。この場合の幼児性とは大人になりきらないということよりは、泣くことを通してしか自分を表現する術を持たない、というような意味においてである。

 さて私の課題はこのような「荒ぶる抒情」を万葉のレベルでどう見いだすかである。今のところよくわからない。それで悩んでいる。来年の学会のシンポジウムの一つを「抒情の身体性」といったテーマで、私が企画をやることになってしまい、テーマまではいいのだが、それをどう具体化するか分からないでいる。どうも困った。

   天神の石段降りる冬日影

   冬の暮れ飛べぬ羽虫も生きるべし

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