津波と自然2006/11/16 00:54

 帰ると津波の情報でどのチャンネルにも日本地図が写っている。津波もまた自然というものの当たり前の姿だ。
 今日、「地域文化論」で、怒江流域に住む人々の過酷な生活とそのくったくのない生き方を紹介しながら、人と自然との関係には二つあると語った。一つは、どんなに厳しい自然であってもその自然に従い、その上で豊かさを考えるというもの。もう一つは、自然を選択し人間中心に作り変えるというもの。二つとも、人間にとっての本質であって、どっちがいいという問題ではないが、怒江流域が前者の関わり方において突出しているとすれば、われわれは後者の関わり方において突出している。
 この二つがアンバランスであることは幸せなこととは言えないのではないか、というようなことを語った。

 怒江流域に住む、リス族やトゥールン族は、欲望を抑えて生きている。それが過酷な環境で生きる知恵であるからだ。われわれは、欲望を持てば眼前の課題は克服できるだろうにと思うが、実は、外部からの投資なしではそれは無理である。
 後者の自然への関わり方というのは、ある地域の内部だけでは不可能である。外部との様々な交換があってこそ、つまり、外部の眼にさらされることを通して欲望は開発され、外部によって内部の自然は新しい価値に変換される。そういう契機がなければ、欲望がその欲望の属する環境の与える負荷を克服していくということはあり得ない。

 従って、リス族やトゥールン族の問題とは、彼等が外部に関心を持たれない、ということにある。何故持たれないかというと、資源を持たないからである。こういう、外部から関心を持たれない地域に住む人々は、たぶん世界の7・8割になるだろう。それは世界の貧困層の数である。

 世界の圧倒的な人々は前者のような関わり方で生きている。自然を選べずにその自然に従うしかないのだ。
 われわれが老いていく身体という自然をそのまま受け容れざるをえないように受けいれているのである。
 がだから不幸なのだということではない。これは幸不幸の問題ではない。
 ただ、後者の側に生きているわれわれも、前者のような関わり方をしているし、逃れられないということを知ることだ。死から逃れられないようにである。

    欲望を抑えしままの柿日和
 
    柿熟す老いゆくことも考えず