つるし柿2006/11/25 00:16


 どうもこの日記、山小屋生活の記録になりつつある。このところ、山小屋にいる日が多いのでどうしてもそうなる。こちらでは色々とやることがある。それらは、山で生活するための仕事で、畑での農作業であったり、薪の確保であったり、また、漬け物作りだったりする。今日は、干し柿を作る。

 薪をいただいたKさんから渋柿をいただき、奥さんがそれを軒先につるした。これで干し柿が出来るはずである。私の方はお世話になっている人に林檎を送る作業。その間勤め先にはメールや電話で雑務をこなす。といってもたいした雑務があったわけではない。

 午後は、霧ヶ峰農場に住む知人のHさんを訪ねる。Hさんは草木染めの染織家で、一人で住んでいる。車も持たず、犬と山の中で暮らしているので、時々訪問することにしている。元気そうで何よりだった。

 明日は、岩波で、雑誌特集の打ち合わせ。ついでに勤め先で雑務。それで私だけ東京に戻る。明後日は結社の歌会で講義と週末はほとんど用事がある。万葉集をこのところ暇を見ては読んでいるのだが、万葉における激しい抒情が詩的表現として表出されてくるのは、やはり家持の時代である。たとえば笠女娘の歌などはやはりすごいと思う。

  恋にもぞ人は死にする水無瀬河下ゆ吾れ痩す月に日に異に
  伊勢の海の磯もとどろに寄する波恐き人に恋わたるかも

 有名な歌ではあるが、恋に翻弄される身体の動揺が実にイメージ豊かに表現されている。明治初期の歌人で、与謝野晶子と鉄幹を争った山川登美子の歌に次のようなものがある。

  狂へりや世ぞうらめしきのろはしき髪ときさばき風にむかはむ
  狂ふ子に狂へる馬の綱あたへ狂へる人に鞭とらしめむ

 これも恋歌であるが、こっちは呪いのような歌になっている。やはりすさまじい歌だが、こっちには暗さがある。この暗さは与謝野晶子にも笠女娘にも無いものだ。この暗さがどうして生まれるのか興味がある。このような暗さは万葉集に見いだせるものなのかどうか、そういうことを考えながら万葉集を読んでいる。

    つるし柿一蓮托生で甘くなれ