浅間がきれいだ2006/11/23 22:54


 今日(23日)は寒いが比較的天気がよかったので残りの林檎を収穫に行った。うちの林檎の樹は不作だったが、林檎園のオーナーが気の毒に思ってくれて、個数は少ないが実の大きい林檎がなっている別の樹に換えてくれた。前の樹の残りの林檎の数くらいが実っていたが、林檎は粒がどれも大きかった。感謝!感謝!である。林檎園は立科で、浅間山のよく見えるところだ。

 林檎園に行く途中、蓼科牧場あたりから下っていく途中から見える浅間山が、雪をかぶり、中腹に雲がたなびいてなかなか見事であった。思わず写真を撮った。

 花祭に行くことも考えて調べたら今はほとんど11月の土曜日に日程が変わっている。確か23日からだと思っていた「月」の花祭も、22日の午後から23日の夕にかけて行うとある。要するに、休日に祭りの日程を変更したのだ。舞い手は今はほとんど勤め人で、しかも町に住んでいる人が戻って舞う場合が多いから、平日にかけて祭りは行われなくなったということなのだ。まあ、これも時代の流れだろう。

 ということで、花祭はやめて、午後は薪割りをして、万葉集を読もうと思ったが、薪割りをちょっとしただけで疲れてダウン。夕食後回復してから図書館で借りてきた「現代短歌全集11巻」をぱぱらとめくって、与謝野鉄幹の歌を読む。

 日曜に「荒ぶる抒情」と題して私の属する結社の歌会で、短歌時評という題で講義をしなきゃいけない。その準備である。たまたま加藤英彦の「スサノオの泣き虫」の時評を書いたので、それを使って、近代短歌における「荒ぶる抒情」の系譜を取り扱おうと思った。「荒ぶる抒情」とは、身体に滞留する感情の鬱積とも言うべきテンションが、時に暴力的なイメージであるいはエロス的なイメージのもとに言葉に表出されることを言う。スサノオは母の国へ行きたいと啼きわめくがその感情が内面化したものと考えればよい。だから、この感情は表現ではある暗さを帯びるし、時には攻撃的になる。
 これは今のところ推測だが、近代短歌にこの荒ぶる抒情が現れるのは、斎藤茂吉からであると思う。この抒情は前衛系歌人たちに受け継がれ、消えかかりながら福島泰樹や加藤英彦に継承されている、というのがだいたい論点だ。

 でも疲れてしまって、このブログを書いた時点で準備はギブアップ。今日は早く寝た方がいいかもしれない。

    冬構えの屋敷小さく浅間山

    浅間山は鳥に残せし林檎の向こう

11月22日
 明日は休みだから奥さんに車で学校へ来てもらっていつものように山小屋へ。諏訪南インターを0時過ぎに通過して割引の千円を稼ぐ。

 さすがに寒いがでも部屋は9度もある。薪ストーブをつけ何とか部屋を暖める。
 今日(22日)の「遠野物語」の演習はレポート三本の発表だったがなかなか面白かった。一人は、座敷わらしから、妖精に展開し、そこから少年愛の話に発展。少年が性愛を知り始めると人間(大人)になるがそれは神から遠ざかることだという。逆に、少年に性愛を禁忌とさせることで、少年は神に近づき妖精のイメージを持てるのだという。確かにそうだ。私が少年愛っていうのはどちらかというとプラトニックなのではというと、一人の学生が早速プラトリックを電子辞書で引いて、先生、プラトンの言う純粋な愛で同性愛を意味するとありますと言う。話がやばくなってきたので、宮崎駿に話題を移す。

 宮崎駿の映画には少女が出てくる。あの少女は性愛を知る前の、大人になりかかる寸前の「少年」だから、まだ神に近い。だから猫バスにも乗れるんだと話すと、宮崎駿ってロリータ?との声がしたので話を早々に打ち切ったが案外そうかも知れない。

 もう一人は、遠野物語に出てくる村人はやたらに異類や動物を殺すと発表した。確かに、蛇を殺すは、異形の男を殺すは、神女を鉄砲で撃つし、河童の子と疑われた赤子を殺す。遠野の人たちは異類に厳しく残酷だ。それだけ畏れも多いということか。
 演習もこんな風に話題が展開していくと楽しい。

 明日は勤労感謝の日。新嘗祭。奥三河では花祭りがある。出来れば見に行きたいのだが…

   神楽里神も揃うて顔赫し

   神楽舞う少年跳ねて神ゑらぐ 

   可哀相でない奴などいない冬の空