シンプルさに出会う2006/11/21 00:58

 どうも首の頸椎症はなかなか治らない。原因は下を見ることが多すぎるということ。ワープロを打つ首の姿勢が最大の原因。このブログも頸椎症を引き起こす一因である。だいたいブラインドタッチで打つわけでないので、どうしてもキーボードの方をつい見てしまう。仮名入力だとなかなかブラインドタッチというわけにもいかないのだ。今更直せと言ってもなあ。別に早く打つ必要もないしこれで間に合っている。
 普段から下を向いて歩く姿勢も問題だ。考え事をして歩くからどうしても下を向く。要するに、私は、胸を張って上を向いて歩く生き方をしていないということだ。いろんなものを背負っているということだ。これも今更直せと言っても無理だろう。四捨五入して六十になろうかって歳で、もっと軽く明るく生きろなんて人に言われたら、たまらんだろ。
 
 今日は雑務をこなすためだけに学校へ行く。行けばいろいろと仕事がある。帰ると奥さんが山小屋から帰っていて、近くの「とんでん」で夕飯を食べる。向こうでは、三味線のお師匠さんが諏訪で演奏会がありその帰りにうちの山小屋に泊まっていったので(奥さんは三味線を習っているということです)、その接待やらで疲れたらしい。
 グラス一杯のビールを飲んだが、帰ってから2時間は寝たまま動けず。起きて「竹乃里歌」を読み始めやっと読了。

 子規の歌はやはり眼前に見えるささやかな自然を歌った病中歌がいい。他の膨大な歌は、歌をただ作るという目的だけに支えられた歌だ。歌とは本来そういうものかもしれない。眼前の風景も思いつきも時事的なこともすべて歌の題として、定型の言葉に変換される。変換の仕方はだいたいパターン化されている。あれほどパターン化された古今集的な歌いぶりを攻撃した子規ですら、ほんとに死ぬ寸前まで、パターン化した歌を歌っているのである。歌を作るとはそういうものだと思う。
 ただ、その中で、ふと異質な世界が浮かび上がる。歌い手の存在や内面がかいま見えるような気のする歌だ。

 上野山夕こえ来れば森暗みけだもの吠ゆるけだものゝ園

 この歌などは他の歌とは異質である。こういう歌が時々出てくる。病中歌もやはり異質だ。

 二荒の山のもみぢを白瓶の小瓶にさして臥しながら見る

 こういう歌に惹かれる。何故かと問われるとうまく答えられないのだが、写実ということではなく、このシンプルさに、言葉を超えてしまった世界が見えるからだ。他のあまりに饒舌な言葉の森の中で、こういうシンプルさに出会うと、逆に、言葉が言葉を抑えて、意味の臨界点をすでに示しているという気にさせられるのだ。とすれば、読み手はその臨界点の向こうに歌い手の見えない心の世界に思いを馳せる。そこには、死に至る病の歌い手という、物語が待ち受けている。とすればこの歌全体が、その物語の譬喩となって、奥深い何かを伝えている気にさせられる。それはある意味でわれわれが無意識に対する時の、心の動かし方に似ているのではないかと思う。

    わが宿業冬安吾して落とすべし

    大根の煮物を喰ふて黄昏れる