アニミズムとアニメ2011/03/09 11:22

 昨日(火)は朝から会議で出校。午後、読売新聞社の取材を受ける。実は、読売新聞の文化部の人が『七五調のアジア』に興味をもってくれて、短歌、俳句のコーナーのコラムに、写真付きで紹介したいと言って来た。それで、今日取材を受け写真もとってもらった。少数民族の歌垣の映像をバックに私と本とを写し込むというかなり無理がある構図だが、どんな写真になっているやら。

 たぶん3月中旬頃の夕刊に載るんじゃないかと思う。出版してから、反響が気になったが、こんな形で取り上げてもらえることはありがたい。それなりに、この本の意義を理解してくれる人がいるということであり、苦労して何とか本にした甲斐があったというものである。

 四月からの授業にそなえて、アニメや童話に関する本を読んでいる。もう10数冊は読んだか。メルヘンはドイツ語で民話といった意味だが、結局、ヨーロッパにおけるキリスト教以前の土着信仰(いわゆるアニミズム)を留めた話である。グリム兄弟は、採取した話を幾分書き換えたりしたているが、それは、ゲルマン民族の古層の神話により近づけるためだったと言われている。ただ、あまりに残酷すぎるのは一般読者向けに穏当な筋立てにした。

 これらの民話の特徴は、超自然的な作用の働きによって、主人公がある一定の法則に従って行動するということである。この決まった行動パターンを昔話の「機能」として分類したのがプロップであるが、それはそれとして、これらは不思議話、つまり、空想的、幻想的な民話は児童文学として展開し、リアリズム主流のヨーロッパにファンタジー文学の流れを作る。やがて創作ファンタジーが生まれ、それらのファンタジーが映像メディアによってビジュアル化され、その流れの上でアニメーションが成立する。

 ディズニーの最初の長編アニメが「白雪姫」であるのは偶然ではない。グリム兄弟から始まる、民話によるヨーロッパアニミズムの発掘の試みを始発としているのである。

 日本のアニメも、戦前の「桃太郎の海鷲」といった戦意高揚アニメのように昔話を素材にしているが、なんといっても手塚治虫の「鉄腕アトム」から本格的なアニメの歴史が始まったと言っていいのだろう。つまり、日本のアニメはSFから始まる、というようにも言える。日本のおたく文化はSFファンの集まりから始まったが、このように、アニメの物語的基盤であるファンタジーが、児童文学ではなく、SFから始まるというのが、日本のアニメの一つの特徴である。

 ディズニーが児童文学のファンタジー物語、つまり子供向けの物語をアニメの本質として捉えたのにたいして、日本のアニメは、若者、大人に向けたSFを基盤にしたから、その点で、アメリカと日本とではアニメの物語性に大きな違いがあり、それは今でも変わらない。日本のアニメが、現代社会を生きる若者の現実を物語に取り込めるのは、ディズニーアニメのような枠組みを持っていないからである。

 それなら、日本のアニメには、アニミズムは機能していないのか。アニミズムの定義を広げれば、ロボットを擬人化して人間と同等にみなす「鉄腕アトム」もアニミズム的なのかも知れない。日本の伝統的ロボットアニメの特徴は、ロボットに霊魂を認めることであり、あるいは、人間が乗れば人間と融合する(機動戦士ガンダムやエヴァンゲリオン)ところである。

 エヴァンゲリオンでは、人間はロボットを操縦するのではなくシンクロさせることでロボットを動かす。つまり、自分の身体もしくは心の一部と化すということであって、ここまで来ると、これは憑依して動かすというのと変わらない。その意味では、ロボットは、巫者に寄り憑く神のようなものである。

 エヴァンゲリオンは、ロボット(神)に憑依する宿命を負わされた少年少女の巫病の物語なのだと読めば、むしろ、日本のアニメは、アニミズム的世界観をSF的設定の上で充分にあらわしていると言えるだろう。

 なにやら、アニメの話が民俗学的な話になってきた。もともと、昔話の研究者である、グリム兄弟もプロップも民俗学者なのだから仕方がないだろう。そういうものなのだ。

                       春浅し魔法の解ける日を恃み