ガソリンがない2011/03/18 00:48

 今日から山小屋へ。疎開のような感じになってしまったが、例年この時期には山小屋で過ごす。むしろ、今年は忙しくてほとんど行く暇がなかった。今回もすぐ東京に戻ることになりそうである。

 ただ、驚いたのが、ガソリンが買えないことだ。午後に自宅を出て、中央高速で茅野へと向かった。ガソリンは半分くらいあった。どこかで入れないとガス欠になるおそれのある量だ。たぶんどこかのガソリンスタンドはあいているだろうと思っていたが、甘かった。まず、調布インターまでの下道のガソリンスタンドはどこも閉店。売り切れの札が貼ってある。仕方がないので、高速に乗って、サービスエリアで入れようということになった。

 談合坂のサービスエリアにガソリンスタンドがある。当然寄ってみたが、すでに車が並んでいた。それでも20分ほど待つだけで入れることが出来たが、なんと、一台五リッターしか入れられないという。つまり、次のサービスエリアまでにたどり着ける量のガソリンしか売ってくれないというわけだ。それでも、五リッターあれば少しは安心である。次の双葉サービスエリアに入ってガソリンスタンドへ。ここも並んでいたがそれほどでもない。が、やはりここも五リッター制限である。合わせて10リッター入れることが出来たので何とか山小屋にたどり着いた。

 山小屋近くのガソリンスタンドが開いていたので、早速ガソリンをいれたら、ここは15リッターまでだという。長野のこの辺りまでもガソリン不足は波及しているのだと実感。

 今、東電の原発作業員が世界中から注目を集めている。まさに命がけで、自己犠牲の精神で働いているとみられている。実際そうであろう。東電は名前を公表していない。東電の社員だけでなく、自衛隊や機動隊の隊員もまた現場で作業している。彼らは被爆覚悟で働いている。が、一方で、被爆の許容量を超えたら待避することになっている。実際放射能の濃度が高すぎて放水作業が中止された。

 外国のメディアはこのことにかなり注目してるようだ。つまり、犠牲を顧みずに危険なところへ飛び込んで国の危機を救う英雄、という物語を期待している、ということである。チェルノブイリの時は多くの消防隊員が火災の消火にあたりかなりの隊員が被爆によって死亡した。9.11のテロでは、ニューヨークの消防隊員がやはり多く犠牲になった。メディアは彼らを英雄として扱った。

 今朝の朝日新聞は、民主主義は犠牲を強制できるのか、という問題に直面している、という記事を載せている。つまり、今、まさに、あのサンデル教授が授業で提起するジレンマ問題に私たちは直面しているというわけである。

 このまま放射能汚染をおそれて原発の消火が出来なければ、大変な事態になる。誰かが、安全な基準を超えることを覚悟して消火活動しなければならないのかもしれない。が、そうだとして、それをだれも口には出来ない。

 しかし、現場の作業員をこういう状況に追い込んだのは、天災でなく人災である。まずこのことを明確にするべきだろう。冷却水を作動させる装置がこんなにも簡単にダウンするのは、地震や津波に対する対策の甘さと言われても仕方ない。また、人員をもっと確保するべきであり、総力を本当にあげてこの事態に対処しているのか、疑問に思う。東電の社長が現場に入ってまず被爆の実態を自分の身体で確認する、というくらいのことがあって、現場の人たちは納得出来るのではないか。時に為政者は自分の責任を曖昧にするために、現場で犠牲的に働く人たちを英雄として祭る。戦争などでいつも繰り返されることである。

 この原発のトラブルで、決死隊という言葉が外国メディアに使われているようだが、こういう言葉に安易にのってはならない。こういった危機の解決は、周到な準備と冷静な判断によるものであって、「グスコーブドリの伝記」のような誰かの自己犠牲で解決出来るほど簡単なものではないはずだ。むしろ、なかなか解決されない事態に周囲がいらだって、現場に何かとプレッシャーを与え現場の冷静さをうしなわせることのほうが返って危険である。

 周囲が出来ることは、現場の作業員が命がけにならないように、万全の準備をどう整えるか、しかない。彼らが英雄にならないほうが、この危機はうまく乗り越えられる、と私は思う。作業員の家族は、英雄になるより無事に戻ってくることを切に願っているだろう。