素人じゃないかも2011/03/22 01:27

 今日東京に戻る。三連休の最終日だというのに、高速はがらがらである。やはりガソリンが買えないというのが、響いているようだ。長野は東京よりはガソリンが買えるので、東京に帰る分のガソリンを確保できた。

 帰ってから外食しようということになつた。外食は、節電効果と経済効果の両方があるので、勧めている経済評論家がいる。それでというわけではないが、近くのファミレスに行った、満員であった。

 私のマンションの隣の部屋が空いていた。音楽家が先月引っ越ししたのだが、マンションのコミュニティボード(白板)、に、今度越してきます某です、と書き込まれていた。今度の花見には参加します、と書いてある。花見は4月2日で、その人は引っ越し日は未定とある。つまり、引っ越しはまだだがマンションの花見には参加する、と書いてあるのだ。この人素人じゃない、と奥さんが言った。どういう意味の素人なんだ、と思ったが、要するに、このマンションの内情をよく知っている人なのではないか、ということだ。いきなりはじめての人が、引っ越す前から花見に参加するとホワイトボードに書き込みしないだろう。実はそのホワイトボードには、花見はいつにしますかという掲示があって、住人が希望の日にちに○を付けるようになっている。それを見たとしても、そこまで書き込みするのはやっぱり素人さんじゃ無いかも知れない。

 <福島第1原発>英雄でも何でもない…交代で懸命の復旧作業 (毎日新聞 - 03月21日 13:53) http://mixi.at/a5brlv0毎日新聞、という記事がある。当初は、日本のメディアは現場で懸命に働く作業員を英雄などといって取り上げなかったのだが、この二、三日、あちこちで英雄という見出しが飛び交い、テレビでもさかんに英雄的行為として報道されるようになった。テレビに、消防署の放水部隊の隊長が生出演して現場の様子を語っていて、司会者は、英雄的行為に感謝しますと頭を下げている。都知事などは、放水に参加した東京都のレスキュー隊の前で涙を流していた。

 ところが、現場の作業員は、自分たちはきちんとした危機管理のもとで交代しながら作業しており、英雄でも何でもないと語っている。むろん、命の危険を伴う作業だから、それなりの覚悟もいるだろうし、普段の仕事と同じというわけにはいかないだろう。でも、別に国のために自分の命を投げ出すといった、そんな英雄的行為で仕事をしているわけではないだろう。危険であろうとなかろうとそれが自分の仕事だからというプロフェッショナルな姿勢で働いている、ということではないか。冒頭の記事はそのような現場の人たちの姿勢を伝えている。

 メディアが英雄、英雄、と突然のように騒ぎはじめたのは、わからないではない。素直に見ればやはり彼らの仕事には頭が下がる。が、別な見方をすれば、美談として物語化したい、というマスコミの戦略もあろうし、政治家は、政治的パフォーマンスとしての計算があるだろう。が、今のところ、危険がないような配慮のもとで仕事をしている、ということであるので、あまり英雄視するのは、むしろ、現場にとっては過剰な反応と言えるのではないか。

 現場で働いている人には、下請けの下請けといった弱い立場の会社の作業員もいる。彼らは、将来の仕事を失わないために働いている。命がけで働いている人にはそういう人もいるのである。生活のためにこういう現場で働かなければならない人もいるということだ。英雄ということばで美化することで、彼らの安全に対する配慮がおろそかになれば、むしろその方が問題である。その意味で、毎日新聞の記事は、英雄ばかり飛び交うマスコミのなかで、なかなか冷静に現場の状況を伝えていて評価出来る。

行って帰る2011/03/22 23:37

 論文を書き始めたがあまり進まず。それで大塚英志の『ストーリーメーカー』(アスキー新書)を読む。ほぼ読了。さらに続編の『物語の命題』(アスキー新書)を半分ほど読む。これらは、大塚英志が大学の授業で、物語というのは構造そのものだから、幾つかの定型的なプロット通りに展開していけば、とりあえず誰にでも物語は作れる、ということで、実際に学生に型を示して物語を作らせるという、そういう内容の本である。

 物語の定型的プロットは、ウラジミール・プロップの「昔話の形態学」をアレンジしたもの。31のプロットがあり、そのプロットに指示されたコメント通りに、学生が物語の筋を作っていけば、一つの作品が生まれる。付録として、31のプロットが空欄の囲みでとともに提示されていて、そこに書き込めばいいようになっている。

 『物語の命題』は、構造やプロットの型を示しても実際は物語は作れない。そこで、テーマをどう作るかという内容で、これも神話以来の物語の構造から幾つかの普遍的なテーマを用意して、そのテーマに沿って自分の物語を展開すれば良いというアドバイスの本になっている。つまり、物語創作というのは、物語理論やモデルに沿って作ってみようという実験を実践しようという本である。いかにも大塚英志的で面白いが、実は、面白いのは、そういう試みよりも、それなりに日本のアニメや文学批評になっているところである。

 物語創作の試みは、私も授業に使えそうである。まあ、それで読んでいるのだが。大塚英志は物語の最もシンプルな構造は「行って帰る」物語だと言う。例えば、日常の世界の主人公が異界に行って帰ってくる、というのが基本パターンだということだ。主人公が、異人であればその逆になる。例えば、かぐや姫は、異界の女がこの世にやってきて帰る、という構造である。

 何故、行くのか。ここはプロップの昔話の機能の分類に従う。欠落を埋めるためである。主人公には必ず何かが欠けている。それを埋めるために旅(冒険)に出なくてはならない。その行き先は、向こう側の世界であり、そこには敵対者がいる。呪物や援助者によってその困難を克服して帰還する。が、その帰還にも試練がある。偽者が主人公になりすまし、成果を奪おうとする。が、その偽物を倒して主人公は帰還できる。というのがこのプロットのだいたいの展開である。

 私は、授業で、物語とは「この世と異界とが重なりあう異常な事態が正常な状態へと回復していくプロセス」なのだと語っている。これもまた「行って帰ってくる」ことである。わかりやすい例で言えば「千と千尋の神隠し」がそうだ。恋愛だったある意味ではそうだ。恋愛している時は男女は正常では無い。つまり「行く」ことである。が、人間はどこかで正常な状態、つまり、日常の秩序に生きること、に立ち戻らなければならない。結婚か、失恋か、それが帰ること。恋愛物語は「行って帰る」物語である。

 さて、プロットはわかるがどういうストーリーを作ればいいのか誰でも悩む。私の定義で言えば、日常と非日常がふと交じり合ってしまう状況を作ること、ということになる。大塚英志は、例えばその代表的プロットが「転校生」だという。萩尾望都の「トーマの心臓」も「時をかける少女」も「エヴアンゲリオン」も転校生がやってくるところから始まる。これだけではない。転校生は、日本の、マンガやアニメの象徴的な定番とも言える始まり方であるが、これは、内と外の世界が交じり合うことのきっかけであって、まさに「行って帰る」物語の始まりにふさわしいのである。

 構造的に理解したからと言っても良い物語が作れるわけではない。ただ、こういう定型は、私たちの無意識を制御しながらつかむ一つの方法でもあろう。シャーマンのように、憑依してことばを紡ぎ出すようにはいかないとしても、そのことばの世界を形には出来る。中上健次は晩年、このようなプロットを意識して劇画の原作を書いていて、そのストーリーを大塚英志が紹介している。考えて見れば、語り手というのは、このプロットを身体に刻み込んでしまった人であって、自在に、物語、つまり、構造化された無意識のそのものを披露できる者のことであろう。中上はそんな存在になりたかったのかも知れない。  

     無常三月物語るまえに潰えぬ