『七五調のアジア』の取材をうける2011/03/29 01:05

 実は震災前に読売新聞の取材を受けていた。『七五調のアジア』に興味を持った記者が紹介のコラムを書きたいというのである。ありがたい話でさっそく取材に応じた。書評コーナーではなく、短歌俳句のコーナーで、定型詩に関わるトピックをコラムに紹介するということである。

 私たちも、この本を企画するにあたって、特に短歌の歌人たちに広く読んで欲しいとという想いがあって『七五調のアジア』と題名をつけたので、一応その想いは届いたということになる。取材を受けて、写真まで撮っていただいて、掲載を待っていたら、今度の大震災である。新聞社もそれどころではなくなってしまったと思う。

 ところが、先日、うまく行けば30日の夕刊に載るかもしれないという連絡が入った。やはり、震災があったので、内容も少し練り直したようである。そこで電話でいろいろやりとりをしたのだが、私は、本の中のある文章を紹介した。それは、手塚恵子の論の冒頭にある文章である。

 それはチュアン族の話で、洪水にあって自分の家が流されていくのを見ていた男が、その家に向かって歌いかけた、というのである。ただそれだけの短い話だが、歌の持っている力といったものを認識させる話である。おそらく、読売新聞のコラムにはこのエピソードが入っているに違いない。

 秋のシンポジウムで、環境と文化といったテーマを考えていたが、この震災で見直しが迫られそうである。こういったテーマをたてるとき、自然に対して人間はどのように自らを律して自然と開発とのバランスを保つか、とまずは前提をたてる。この前提がなければ、こういったテーマは文学や歴史資料の渉猟に終わってしまうような、ただの興味本位になってしまう。だが、ここまで自然の破壊力を体験してしまうと、自然とのバランスを保つなどいうテーマはリアリズムを失ってしまう。とかいって、これは自然の側からの人間への罰だ、などというとらえ方は石原都知事と同じで不謹慎である。

 この大震災によって、自然と人間といういテーマが、われわれの手に負えないほどのリアリズムを帯びてしまった。よほどの覚悟がないととてもシンポジウムのテーマにすることは難しいと思う。かといって、だから止めよう、というのも、逆にこの問題に目を背けることになろう。真摯に向き合うことがむしろ求められている。

 今度の災害は私たちの学問にもいろんな意味で大きなインパクトを与えているのである。