環境と自然2011/03/04 01:36

 ここのところ家で仕事。毎日の出校はないが、一日おきくらいには出校している。会議とか、研究会とかいろいろ仕事はある。来年度の基礎ゼミナールのテキスト作成中で、この仕事を後回しにしていたので、期日が迫ってきて慌てて原稿をまとめている。

 28日にアジア民族文化学会の秋の大会のシンポジウム打ち合わせを、ナシ族の署神を祭る儀礼を一緒に調査したE氏とK氏とで行った。テーマは環境と何々というようになるだろうが、具体的には決まっていない。

 とりあえず私の方からシンポジウムのイメージだけを語った。環境を文化論とかからわせて論じようというこのテーマはなかなか難しい。環境問題は政治的、社会的なテーマではあるが、文化論や文学の問題としてはなかなか難しいところがある。

 その理由としては、環境はそのまま自然とみなすことができないからだ。自然は神である、と言える。が、環境は神であるといえるだろうか。自然は人間もその一部といえるが、環境はそうは言えないだろう。最近、文化論や文学として、環境問題をテーマにすることが多い。それは、自然と人間との共存が失われることへの危機感に対し、自然と人間とが実はうまくつきあってきたのだ、という証拠を、伝統的な儀礼や古代の歴史や物語資料に見いだしていく、という展開になる。

 ところが、人間が自然とつきあってきたことを、人間は自然を大事にして共存しようとして、自然とつきあってきたのだ、と解釈してしまうのはおかしい。人間が何故自然と共存してきたかは、人間が何故自然の植物や動物を食べてきたのかを問うことと同じで、そこに特別な意味を見いだしていたからではない。生きるとはそれ以外になかったからだと考えるしかない。自然神を祀る儀礼も自然神との親しい関係を物語る物語も同じことで、そこでの自然は、人間が生きていく上で畏れたり敬ったりする他者である、ということに過ぎない。その他者と共存するためにその他者とかかわっていたわけではない。かかわらなければ生きて行けないからかかわっていたに過ぎない。

 が、生きることそのものが危機的だとしたとき、その理由についていろいろ考える。その一つが自然との関係がうまくいっていないという反省であろう。今、その反省をしているのだ。が、自然とうまくいっていないのではなくて、本当は、環境とうまくいっていないのだ。人間のための環境が人間のためになっていないということである。が、環境問題は環境問題にすぎない。自然問題とは言わない。何故なら自然という他者は、人間がいくら困っても自分は(自然は)困らないからである。緑のない荒涼とした砂漠も立派な自然である。

 が、私たちは、環境問題を自然問題と考えたい。自然とかかわらなければ生きて行けないという、論理を越えた信仰に似た理屈で、この問題を考えたいのだ。自然をおろそかにしたから自然から復讐されていると考えたいのだ。 ある意味で楽な思考方法である。

 だんだん話が複雑になってきたが、環境問題を自然問題と考えることは、病気を神罰と考える思考とそれほど変わらない。だからだめなのだということではなく、この思考は、人間の根源的なところに根ざしているので、簡単にだめだとは言えない。ただ、学問的ではないというだけである。しかし、学問などというのもあやしいところがあるので、こう言えばいいか。あまり考えずに済む方法であるならそれはだめだということだ。楽すぎる思考はよい解決策を生まない、ということである。

 何が言いたいかというと、自然神を祀る儀礼が、すでに環境問題を実践した思想を持っているなどと簡単に決めつけるのは、それは楽すぎる結論である、ということである。環境問題を自然問題に置き換えることを良しとしよう。そうしないと、わたしたちのシンポジウムは成立しないから。ただ、それは、ものを食べるということそのものの意味を問わなければならないような、極めて本質的な意味での解きがたい問題に立ち向かうことでもある、ということだ。

 自然問題と環境問題を楽ではない方法でかかわらせるとすれば、人間が自然という他者とどのような方法で向き合ってきたのかを問うことだろう。人間もまた自然である。その自然を他者とするということは、例えばシャーマンが自分の中に神を見いだすようなものだ。比喩的に言えば、シャーマンが自分の無意識の中に折り目を入れて、他者を顕在化することだと考えている。問題はその折り目を入れる方法である。それは身体の痛みではないかというのが、今考えている所である。身体の外延の延長に自然も環境もある。痛みは、人間が自然や環境を他者とみなす一つの方法である、ということだ。

新しいアニミズム2011/03/04 23:55

 環境問題の続きです。

 アニミズムは自然保護の思想たり得るのか、ということが、環境問題を文化論の問題と関わらせるときにテーマとなるだろうと思われる。

 自然保護の最も進んだ思想は自然中心主義であり、人間に権利があるように自然にも権利を認めようというものである。つまり、ゴミはまだ使えるからもったいない、だから捨てるなではなくて(これは人間中心主義)、使えるゴミを捨てるのは自然に対する犯罪である、と考えるのが自然中心主義である。

 環境破壊に対して、自然に訴える権利を認めようという考えはすでにある。これらは、自然を人間の暴走を抑える人格を持った存在としてみなす思想であり、ある意味で新しいアニミズムと言えるのかも知れない。加藤尚武は、もともと、近代における人間の権利という概念そのものが、近代的なアニミズムなのだという(『環境倫理学のすすめ』)。つまり、自然に霊魂が宿るという思想から脱却した西欧は、それでも人間に霊魂が宿るというアニミズムを脱却出来なかった。その霊魂が近代的な装いとして権利となったのだという。例えば、個人が死んでもその個人の権利、財産とか所有権とか名誉とか、そういったものを人は尊重する。それは、人が死んでも霊魂が残る、ということと同じなのだというのである。この権利の概念をアジアの社会が受け入れたのは、もともとアニミズム的思考だからというのである。

 面白い考えかたである。自然に霊魂が宿るというアニミズムを脱却できないアジア的世界、つまり、われわれが、なかなか個人の権利を認められないのは、自然とわれわれとが截然と切り離されてないからなのかも知れない。

 さて、自然を神とみなすアニミズムを切り捨てた西欧は、個人の権利の暴走によって、自然破壊に歯止めがきかなくなる。そこで、自然にも権利がある、つまり、霊魂があると言い出した。それが、新しいアニミズム、自然中心主義の自然保護運動というわけである。

 これは加藤尚武の本を読んでの理解だが、自然には霊魂が宿り、その自然と共存してきたわれわれの文化(アジア的文化)は、今、「新しいアニミズム」という視点から見直されている、というのが、環境問題における、アニミズムの役どころ、と言ったところだろう。

 だが、このようなとらえかたは、文化論としては、簡単には乗れない。というのは、新しいアニミズムが、いつのまにか、古代の新しいとはいえないアニミズムを単純に解釈し、複雑で奥深い自然と人間の関係を見えなくしてしまうからである。

 自然に人間を告発する権利を認める、という自然中心主義、新しいアニミズムは西欧から発信されたが、まだ自然そのものに霊魂があるとみなすアジア的アニミズムにどっぷりと浸っているわれわれは、この思想に簡単に乗れるのだろうか。どうもしっくりといかない、というのが大方の感想だろう。それなら、アジア的アニミズムには、人間の暴走を抑える仕組みが内在されているのだと見なすのか。それとも、そんなものはないのか、ないとすれば、アジア的アニミズムはこの問題にどう役立つのか、というようなことを考えなければならなくなる。これは、文化論の思考ではないが、避けるわけにはいかない。

 私なりの答えは、アジア的アニミズムに、人間の暴走を抑える仕組みなどはない、ということである。が、そのことは、人間は自然に対して何でも出来るというのとは違う。人間は自然と、身体的なレベルでもつながっている。そこに、ここでいうアジア的なアニミズムの問題がある。自然開発は自然を傷めて人工物を作る、というように見えるが、その人工物を自然の延長みなせば、開発は、自然の再生産であって、霊魂の拡散を意味するだけである。少なくとも、その程度の柔軟性がアニミズムにはある。

 ただ、度を超すという問題ががある。そういうときに、自然と人間の関係はうまくいかなくなる。度を超して拡張した自然を、自然とみなせなくなる。つまり、身体の延長としてとらえられなくなる。その時、どうなるのか。たぶん、つながっているというある感覚、つまり身体というレベルを失うことではないのか、と思われる。それが「不安」ということではないか。

 新しいアニミズムはこの「不安」への対処として生まれた。が、日本人は、どこまでこの「不安」を持っているだろうか。かなりの自然破壊をやってきた日本人が、それほどの「不安」を持っていないのだとしたら、これは文化の問題である。つまり、日本人におけるアニミズムの問題である。