雪女と山姥2009/09/05 00:39

 ここのところ毎日、勤め先の短大の第三者評価の準備と、遠野物語研究会での発表の準備とで一日の時間が消えていく。毎日ではないが、打ち合わせ等で出勤している。第三者評価は極めて事務的な作業なのでどうということはないが、遠野物語の発表の方はなかなかはかどらない。

 毎年、学生に遠野物語の発表をさせている身なのだが、いざ自分で発表するとなると、なかなかいいアイデアが浮かばない。困ったものである。今回は、「雪女」で何か言えたらと思っている。「雪女」は一般的にはラフカディオハーンの話が有名だが、実はいろんなバージョンがある。

 遠野物語にある雪女は、小正月に子どもを引き連れて遊ぶ雪女で、子どもを異界へ連れて行ってしまうと怖がられている。私はこの話がとても好きで、これで何か言えないか悩んでいる。何故好きなのかというと、そんなに怖くないからである。そして、小正月の満月の夜、たくさんの子ども達を引き連れて遊ぶという光景が幻想的でいいなあと思うのである。

 実は、ドイツの「ハーメルンの笛吹き男」の伝説とこれはよく似ている。それで、両者を比較しながら、何か言えたらいいなと思っている。ただ、オリジナルなことが展開出来るわけでもなく、この話をおもしろがっている私の興味が伝わればいいというだけの気の抜けたサイダーみたいな話になりそうだ。

 7日に遠野に出かけて9日まで遠野で研究会なのだが、7日に第三者評価の会議が入ってしまった。さらに実は9日にも会議がある。自分で言うのもなんだが、実に忙しいのである。7日の会議を少し早めの時間にしてもらって、遠野には遅れて着くことにした。9日は、どうあがいても会議に間に合わないので、というのは、9日に私の発表があるので、これを優先させると会議に出られない、それで、会議を欠席するということにした。まあ、私がいなくても何とかなる会議なので。

 雪女には産女のバージョンもあり、山姥と重なる。山姥については『山姥たちの物語』(水田宗子・北田幸恵著)、『山姥、山を降りる』(山口素子著)の2冊を読んだ。発表につながればと思ったが結局つながらなかった。だが、なかなか面白かった。『山姥たちの物語』はジェンダー論から見た山姥論で、簡単に言えば、山姥とは抑圧された女性性の解放された姿であるという論点である。このような視点から現代の女性作家がけっこう山姥をモティーフにした小説を描いている。

 『山姥、山を降りる』はユング心理学からみた山姥論で、山姥のイメージとは、日本人の集合的な無意識に深く根付いた一つの元型イメージであるとする。ユングによれば人間の無意識の元型には「偉大なる女神」イメージがあり、その日本的表象が山姥だというのである。そう言われればそうかなという気がする。心理学から読む解釈というのはいつもそうである。ただ、やはり、山姥というのは、なかなか奥が深いということがよくわかった。私たちの無意識の奥底にある元型なのであるから。

                       邯鄲しずまり山姥降りてくる

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://okanokabe.asablo.jp/blog/2009/09/05/4563481/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。