青い心2009/01/16 00:49

 最近テレビもけっこう面白い。14日日テレの安田講堂攻防戦のドキュメント形式のドラマは、佐々何とかという警察官僚を褒め称えるような作り方で其処が面白くなかったが、まあまあよくできていたのではないか。ヘルメットのセクト名もちゃんとだしていたし、それなりに調べたらしいことはわかる。立て籠もった学生の会話などはいかにも作ったなあという感じだったが。

 わたしは、安田講堂の時はまだ大学生でなく実家でテレビを観ていたほうなので、実際に詳しいことはしらない。その年に大学に入ってから、安田講堂のことはいろいろと聞いた。全共闘運動は安田講堂を境に後退局面に入っていった。その意味では私などは後退局面の活動家だった。

 安田講堂に籠もった一人があの頃は熱に浮かされているような感じで気が付いたら逮捕されていた、というようなことを語っていたが、その感覚はよくわかる。時代の熱気というのは今から思えばすさまじいものだった。あの頃の振る舞いは、青春を振り返るとみっともなくて恥ずかしくなるのと同じで、とてもまともには語れないが、その時は正義だと思ってふるまっていたのは確かだ。革命と言う言葉を何回言ったことやら。革命なんて無理なのは誰だってわかっていたが、とりあえずそう叫ぶことが時代の熱気を共有することだったのだ。

 それにしてももう40年たっているのである。当時の学生はみな定年退職の年齢だ。その40年前の光景がまざまざと蘇るのは、わたしたちの世代の宿命みたいなものだろう。もっとも皆がそうだというわけではないが。

 今日のNHKのハイビジョンで、言葉の起源について考古学や生物学、脳科学という視点から解明する番組をやっていてこれも面白かった。動物レベルの言語からホモサピエンス人間の言語の間にはかなりの飛躍がある。この飛躍の起源をどうやって説明するのか、そこにこの番組の焦点があったが、いろんな説があってかなかな面白かった。

 飛躍説というのではないが、人間の言語の起源を歌とする生物学者の説があって私はこれが一番気に入った。コミュニケーションに歌を用いる、ということだが、小鳥のさえずりも歌としての構造を持っていて、ある程度の複雑なコミュニケーションが可能になるという。歌は、音と音とを区別できること、そしてある法則性によって音が並べられることほ条件とする。その法則性がある意味を構成するのでコミュニケーションが可能となる、というのだ。歌の掛け合いの研究者としてはけっこう面白い説であった。

 もう一つは、言葉がどのような構造を持ったときに言葉は飛躍するのかというシミュレーション実験があって、それは文の再構成にあるという。こういうことだ。青い空、青い川、という文から、青いという概念が成立していることがわかるが、これを見えるものの形容に使っているうちは言語は飛躍しない。ところが、「青い心」と使うと言葉は飛躍の条件を手に入れる、というのである。つまり、それ自体存在しないものを言葉が生み出していくとき、ということである。

 人類が「青い心」とどういうきっかけで言えるようになったのか、その説明は難しいという。偶然説もあり、長い進化のプロセスの結果という説もある。子どもが「青い心」と言い始めるのは、たぶん言葉の遊びからだと思う。言葉を勝手につなぐと一つの新しい意味が生まれる。この発見の面白さというのは、人類の進化の中にもあったのではないか。それは好奇心というものかも知れない。好奇心は未知のものに近づこうとするリスキーな態度のことだが、この態度があってこそ、「青い心」が生まれ、その「青い心」に見合う心というものが人間には見えるようになったのではないか。そんなことを考えたのだが、どうも仕事もしないでテレビばかり観ていることがばれてしまったようだ。

                   猿回し猿は言葉を封印す

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