男女の違い2009/01/14 10:04

 昨日は会議日。今年最初の会議となる。学長も決まったことだし、わが大学も何とかこの厳しい時代を乗り切っていってくれればいいがと願う。私もそれなりに生活がかかっているので。

 私の属する学科は何とか学生も集まり今の所順調である。学科長として、少しは欲が出て、こうなったら理想の学科を作ろうかなどと思わぬこともない。むろん、私一人では出来ないことだし、教員のモチベーションを高める努力が必要だが、今の所そこまでやる気力がないし、たぶん能力もない。

 理想の学科とは、英語コースなら英語が話せるようになり、日本文学コースでは文章がうまくなり、心理学なら心理の知識に通じるということだが、それだけではつまらない。何のために英語がうまくなりたいのか、何のために文章が上手くなりたいのか、なんのために心理の知識が必要なのか、個人のモチベーションではなく、全体のモチベーションとしてそういう目標が定まると面白いと思う。

 例えば英語コースなら教員も学生も一緒に英語がうまくなってこういうことをやろうぜ、という目標を一つ設定できればいい。日本文学コースも心理学コースも同じだ。心理学コースなら、学生の心の悩みをみんなで研究しようぜ、でもいい。

 つまり教える教えられるという関係でない関係を教員と学生がどう作れるか、という一つの試みである。こういう関係が少しでもあると教員も学生も生き生きとするのではないかと思うのだが。だいたいいつも教える、というのは飽きるのだ。学生だっていつも教えられているのは飽きるだろう。

 というようなことを考えながら、まあ無理か、と思いつつ、今の自分の立場を愉しんでいるというわけです。

 12日の夜、NHKで男女の性差考えるシリーズがあり、興味深く観た。授業で柳田国男の「妹の力」を取り上げていて、女性の力を回復しなければならないと語る柳田の言葉をどう考えるのか、と学生に問いを投げかけているところなのだ。柳田の言う「女性の力」はある意味では非日常的な力とでも言うものだが、そういう非日常性がこの現代社会でどう有効なのか、という問いであるだろう。

 MHKではジェンダー論ではなく、男女の能力の違い身体構造の違いを客観的に把握し、その違いに適応した仕事や教育、あるいは薬などを用いるという取組が今アメリカなどで進んでいることを紹介している。例えば、男女の性格や能力の違いなどを考慮した男女別々の低学年教育が今アメリカで試みられているという。

 男女平等でなくなったというわけではなく、違いが本来あるのにその違いを無視した強引な平等は帰って不幸な結果を招くということに気づき始めたということだ。例えば、薬でも男も女も同じだろうと思っていたものが男女によって副作用に差が出ることがわかってきた。

 差別とした語られてきた男女の役割の違いについても、男女の何万年もの生活の仕方の違いによって生まれていて、その違いを平等という理念で無視したはならないということである。例えば、男は狩に出て獲物を追いかけながら自分の家から離れてしまう。そのとき最短距離で家に帰らないと獲物の肉は腐り、自分も家に帰れなくなる。だから、自分の位置を空間的に把握する力が身についたということらしい。女性は、家の近くの木の実や植物を採集するとき、目印によってその位置を覚える。その覚え方に空間的把握は必要なく、むしろ、目印を言葉で語れればよい。

 だから男は空間的な地図の読み方は得意だが女は不得意だ。だが、目印を言葉で語りながら目的地点に到達する能力は女性が優れていて、逆に男は不得意である。男と女とでは地図の読み方が違うので、女が地図が読めないというのではない、ということらしい。

 そういう違いを把握して役割分担しないと結果的に差別なくならないということであろう。男女の違いを個性として役割分担しながら補いあったほうが、真の意味での平等ということになる、とこの番組は語っているように思える。性差は作られたものだから、そういう性差は無くしてしまえというフェミニズム的主張とは一線を画した、いかにもアメリカ的な合理的で機能主義的男女論だとも言えるが、フェミニズムを推し進めてきたアメリカがここまで来たか、ということを知ってなかなか面白かった。
  
 ひょっとするとこういう時代の流れが女子大の存在価値を見直すことになるかも知れないなどと、思いながらつい観てしまった。
 
      成人の日女ばかりで祝いけり